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インターネット上でよく見かけるこの言葉はご存じでしょうか。 「好きの反対は無関心である」 「愛情の反対は無関心である」 原文はマザーテレサが言ったものとされています。 "The opposite of love is not hate but indifference." よーく調べてみると、仮にマザーテレサが言ったとすれば後者の「愛情の反対は無関心である」が本意のようです。 "Love"を翻訳する際に解釈が間違っていったのかもしれないですね。 この言葉について考えてみましょう。 まず「愛情」はマザーテレサが使ったキーワードの一つです。 私は特別に調べたことはないのですが、彼女の言葉の節々からは「人は食料やお金といったものよりも愛情を欲している」ことが読み取れます。 この愛情という感情は好きとか嫌いの問題ではなく、神から与えられるものとしています。 つまり何かしらの感情をかけてあげている状態が、マザーテレサにとっては愛情と表現されています。 例えばこんなことを言っています。 "Being unwanted, unloved, uncared for, forgotten by everybody, I think that is a much greater hunger, a much greater poverty than the person who has nothing to eat. " 食べる物が何もない人のひもじさや餓えをしのごうと食べ物を望む気持ちよりも、誰からも必要とされず愛されず気にされず忘れ去られた人にとっての愛情の少なさや愛情を欲している気持ちの方が強いと私は思うのです。 これでマザーテレサの考えがわかったと思います。 病気になった人が病室のベッドで寂しく闘病するとき最もうれしいのはなんだと思いますか? マザーテレサ流に言えば、愛する人、心を許せる友人、看護師、そしてだれでも良いから愛情をかけてくれることなのです。 これでマザーテレサの話題は終わり。 「好きの反対は無関心である」という言葉について考えてみましょう。 ある意味拡大解釈された言葉でもありますが、何人かの思想家や作家はこの言葉を使っています。 ●ロロ・メイ(心理学者) "Hate is not the opposite of love; apathy is." 憎しみは愛することの反対ではない。憎しみの反対は無感情なのだ。 ●エリ・ヴィーゼル(作家) "The opposite of love is not hate, it's indifference. The opposite of art is not ugliness, it's indifference. The opposite of faith is not heresy, it's indifference. And the opposite of life is not death, it's indifference." 好きであることの反対は嫌いなことではなく、無関心だ。 芸術的なものの反対は醜いものではなく、重要でないことだ。 正統な信仰の反対は異端な信仰ではなく、どっちつかずの中立状態か無宗教状態だ。 そして生きることと背中合わせなのは死ではなく、何も考えずににダラダラ過ごしていることだ。 (かなり怪しい訳が含まれているので話半分に) 以上二人の言葉を拝借してきましたが、二つともに共通する事柄があります。 それは、一般的に反対とされている言葉同士は根底に同じルーツが芽生えていることです。 憎しみも愛、好き嫌いも、関心があるからそんなな感情を抱きます。 関心がなければ感情すら抱きません。 芸術的であるかそうでないかは作品として認知されている時点で同じ土俵に立っています。 いくら美しくてもそれが価値を持たない限り、どうでもいいことです。 正統な信仰も異端派も、元をたどればおなじ宗教。 考えの違いによって分かれていますが、そもそも宗教について無関心ならば関係はない。 どっちにもつかず考えをハッキリさせない宗教家は同じ土俵に立っていない。 生きるの死ぬも、重大に苦しみを伴います。 しかし生産的な活動もせず何も考えずに、ブラブラするのは生きているのか死んでいるのか分かりません。 --------------------------------------------------------------------------------------- これを、表題の「好きの反対は無関心である」に当てはめてみます。 反対という言葉は、本来ならば対(つい)になるはずです。 したがって、この考えだと「好きの反対が無関心ならば、無関心の反対は好き」になってしまいます。 どうかんがえたっておかしいですよね。 これを推し進めると嫌いの反対も無関心となり、さらに好きと嫌いが反対になってしまいませんか? 好きの反対である無関心の反対は、嫌いとなり、嫌いの反対は好きという堂々巡りになってしまいます。 この問題は、好きと嫌いの後ろに隠れている「関心がある」という感情を考えてないことから生まれてきます。 言葉をはっきりと定義せずに曖昧にして、そしてきちんと説明せずに省略して使うから間違いが起こります。 好きも嫌いも気になる子、何も思わないのはどうでもいい子なのです。 子供の頃、好きな子をいじめたくなるってことありませんでしたか。 それは好きと嫌いという感情がかなり近い位置にあるからなんだと思います。 他にも、野球でいうと熱烈なアンチ巨人の阪神ファンが居るとしましょうか。 この手のアンチは何も考えずに攻撃的に振る舞いをしている人も多いのですが、実のところ巨人についてよく知っている人が多いのです。 内情をよく知らなければアンチ活動も良くできないし、知れば知るほど嫌いになっていくというわけです。 にわか巨人ファンよりも選手の特徴についてよく知っている阪神ファン、ちょっと面白いと思いませんか? もしかして巨人をよく知っていくうちに巨人ファンになるかもしれません。 結論づけるとこんな感じでしょうか。 ・好きと嫌いは反対である ・関心がある状態と無関心も反対である ・好きと嫌いの感情には関心がある。したがって見方を変え、言葉を省略して言えば「好きと嫌いの反対は無関心」と言うことも出来る ・ただし「好きと無関心」、「嫌いと無関心」に直接の関係はない。あくまでも関心がある状態を通じてのみの関係である 最後になりますが、好きとか嫌いとか思われているだけまだマシなのです。 芸能人を思い出してください。 毎年嫌いな芸能人や抱かれたくない芸能人のアンケートが出てくるはずです。 しかし彼らは認知されています。 数年後に「ああ、あんな芸人いたね」と思われてしまったらもうダメなんです。 私のウェブサイトの中心コンテンツであるゲームにも言えます。 重厚長大なゲームが大量に作られた結果、普通の人はゲームに見向きもしなくなりました。(無関心) そうなってしまうと好きも嫌いもそんざいせず、ゲームに興味を持ってもらうことすらしてくれません。 数年前にDSとWiiが絶好調だったときに任天堂は「我々は無関心と戦っている」と言っていました。 確かに好きとか嫌いとかの前に、知ってもらうことが大切なのです。 そしてそこから先の「もっと知りたい」と思わせられるかどうかは、会社の実力次第。 「やればわかる」ではダメです。「やってみたい」が理想なのです。 |