渡辺 修司、中村 彰憲 『なぜ人はゲームにハマるのか 開発現場から得た「ゲーム性」の本質』(SBクリエイティブ、2014)

著作の意図と方法論

 本書は、ゲーム性という曖昧な言葉の本質を探り、定義付けを行い、人がゲームにハマる理由をゲーム性の正体「ルド」に求めている。ルドにプレイヤーを誘うために併置されているのがナラティブであり、ルドとナラティブに大きな影響を与えるのがアーキテクチャーである。以上の内容を様々な理論を援用しながら論理的に明らかにし、実際のゲームに適用させている。

 これだけ横文字を並べても分かりにくいと思われるが、本書の中で丁寧に説明されているので、読者にとって問題はないだろう。刺激的な概念を多用するのではなく、論理を積み重ねて「ルド」を導いた本である。論理が積み重なっていく本なのだと理解して読んでいけばそれほど苦労しないでスイスイ読めると思う。

内容

 まず、第一章第二章でデジタルゲームには「ゲーム独自の何かがある」ことが示される。比較対象は遊びや競技について書かれた有名な本(カイヨワ『遊びと人間』など)である。他、ゲームを定義づけようとした本をいくつか参照し、また具体例もみながら、既存の枠組みでは「ゲーム性」という言葉を紡ぎ出せないことが明らかになる。

 次に3章から8章まではデジタルゲームを記号的、身体的、視覚的、触覚的に分析を行う。この章は以降で使われる「ルド」の概念を理解するための導入となる章である。
 9章と10章で、人がなにかにのめり込む理由をモチベーションの視点から説明する。モチベーションが最適になるのはどのような場合かをこれまた具体例を出しながら考察している。

 そしてようやく11章で、「(3章~8章の枠組み)+(9章と10章のモチベーション理論)=ルド(俗にいうゲーム性)」であることが導かれる。ルドについて短く説明するのは困難だが、敢えて私なりに短く言うと、「とある世界にプレイヤーが作用できる物体があり、プレイヤーが自分の力で動かすことができると認識できるとする。このとき自分の身の丈にあった適切な難易度を取捨選択しながら最も熱中できる難しさで遊べるように、とある世界側からデザインがなされ、またプレイヤーが自分で難易度を選べるように作られているとき、我々はとある世界を「ゲーム」と呼ぶ。以上の要素を呼び起こすデザインこそがルド(ゲーム性)である」となるだろうか。詳しくは本書を読まれたし。

 12章ではナラティブが扱われる。ルドだけでは人はなかなかゲームをやりたがらないので、ナラティブがプレイヤーの目を惹きつける。要は見た目であったり、声優の起用であったり、プロットの善し悪しであったり、といったものである。プレイヤーがルドにアクセスするために補助輪の役割を果たすのがナラティブであるとも言えるだろう。もちろんナラティブ自体に楽しさはある。

 最後に13章で、ルドとナラティブをとりまく環境を扱う。これをアーキテクチャーと呼ぶ。これも難しいことは考える必要がない。とどのつまり、ハードウェアの制約、開発資金の制約、コントローラーの形状、対象とするユーザー層、そういったものをかんがえると良いだろう。

評価

 ゲーム性の正体について過去の研究、異分野の研究を援用して論理的に導いた本であり、提唱された「ルド」の概念はゲームを分析する際に極めて有益なツールであると言える。また、「ルド」は柔軟性がある概念だ。なぜなら私たちがゲームを遊ぶ際にストーリーと読んでいる要素(=ナラティブ)と補完しあう関係にあり、更にハードウェアへとつながらアーキテクチュアの概念とも無理なく接続できるからである。
 「ルド」の概念はプレイヤーが体験する感覚を反映しているのも特徴である。身体的、感覚的なものはともすれば独りよがりになりがちであるが、そこは過去の研究を援用して誰でも感じるような概念に作り上げている。違う見方をすると、殆どのゲーム、プレイヤーに対して対応できる概念であるため、どんなジャンルでも、海外のゲームでも、「ルド」を使えば分析が可能になるとも言える。この点でも優れた概念だと言える。よって、日本とアメリカのゲームを比べたり、ハードウェア間のゲームを比べたりするよりも更に根源的な地点からビデオゲームの面白さを探求することができる可能性がある。

 ただ、本書は「ルド」の概念を提唱し論証し実例をしめしただけにすぎない、序論中の序論である。これから研究が進むにつれて「ルド」の定義を修正する必要性は出てくるだろう。また、トレードオフの概念と「ルド」の見た目はそっくりなので、人によっては既知に見えて新鮮味を感じないかもしれない。しかし以後の研究を期待させてくれる本に違いはない。

書評 上村雅之 細井浩一 中村彰憲『ファミコンとその時代』 (NTT出版、2013)

著者の方法

 「テレビゲーム」がいかにして生まれ出たのかを明らかにする本である。ここでいう「テレビゲーム」とは、デジタルゲームでもビデオゲームでもなく、日本独自の言葉「テレビゲーム」である。本書によれば「テレビゲーム」が確立したのはファミリーコンピュータ(通称ファミコン)が世に出てしばらしくしてからのことであるという。「テレビゲーム」とは単にゲーム機やソフトウェアだけでなく、半導体などの産業分野に影響を与え、「テレビゲーム産業」とも呼ばれるひとつの産業を作り上げ、文化的には若年層に多大な影響を与えたものとして規定されている。
 『ファミコンとその時代』はビデオゲーム研究における「抜けた穴」を生めるべく作られた本である。明確な方法意識は巻末に収録されている講演会の対談に書かれている。以下のようなものである。ビデオゲームに関する研究は始まったばかりであるが、中でも手薄なのが「ゲームの技術史」である。また、開発者の上村雅之本人にしてどうして売れたのか分からないと言わしめるほどブームになった理由を辿る研究も道半ばである。本書の目的はこの二つをしっかりと記述することにある。
 「なぜうれたのかが分からない」理由は需要者側の研究、つまり買っている側の研究が未発達だからであった。どのように受け入れられていったのかは、個人の体験や映像による記録などにしっかりと残されている。しかしアカデミックな内容にまで引き上げられているものが皆無であった。そこで本書ではアカデミックな書き方で技術史という生産者側の視点と、文化史や社会史という需要者側の視点を併記してあるのである。

内容

 第一部が開発史である。ただし開発史といってもファミコン製作の過程を丹念に追うのではなく、ファミコン以前から話がはじまり、ファミコンまでにいたる流れが詳細に書かれている。なぜだろうか。ファミコンは偶然の産物だったのである。変な言い方をすれば、ファミコンがエポックメイキングだったのは後の時代から見てそうだったのであって、当時は新しいゲーム機のひとつにすぎなかったのだ。また、技術的な困難や前世代のゲーム機とのつながりと断絶を強調するために、ゲームの黎明期から本の内容は始まっていると言える。。
 開発史は主に上村雅之が執筆している。彼は任天堂で長年ハードウェアを製作してきた人物であり、まさにファミコンを作った人その人である。であるからこそ貴重な証言であり、ほぼファミコン史の決定版になっていると言える(ほぼと言ったのは、どうしても内部からだと客観性が薄れるため)。
 第二部はファミコンがどのように売れていったのかを、経済的視点と社会的視点から分析している。経済的視点についてはファミコン以前のアタリ社によるゲーム機と販売戦略との違いが強調される。社会的視点とは、ファミコンを人々がどのように受け入れたのか?を記述している箇所のことである。例えば同時代の玩具との違い、アレルギー反応ともいえるファミコンへの反発、或いはファミコンに入れ込むスコアラー文化の存在などである。重ねて言うが、第二部は需用者側の視点について、文化面も含めて書かれてある。そこにこそ私たちがいまでもファミコンと聞いて思い浮かべる音、空気、ノスタルジーを生み出すもととなるものが存在した。第二部ではファミコンがファミコンであるアイデンティティのようなものが記述されていると言って良いだろう。

評価

 アカデミックかつ詳細な記述はファミコン開発史におけるほぼ決定的な証拠となりうる力作である。いままでも内部からの発信は多々あるものの、インタビューであったり対談だったりと断片的な内容が多かった。ここまで包括的に論じた類書はない。
 日本の事例に絞っているのは限界ともいえるのだが、むしろ日本でなぜファミコンがブームになったのかを明らかにしなければならないので、米国での販売戦略等を紹介するに止めているのは正解だと思われる。今後はアメリカゲーム文化とのつながりを探る必要があろう。
 ファミコン以前と以後を、ファミコンがプラットホームリーダーシップの確立をしたこと、子供達の間で文化的に受け入れられたという文化面を強調することによって、ファミコンの特異性を浮かび上がらせている。と同時に、ファミコン以前からの開発技術史の流れを併記しているため、ファミコンは前世代のゲーム機とつながりがあり、ある意味偶発的にブームになったことがしめされている。以上の記述によって開発者が「何故売れたのか分からない」点について一定の答えが出ている。つまり、世に数多あるゲーム機のひとつとしてファミコンは生み出されたのに、ブームとなっていったのは、プラットホームリーダーシップを偶発的にとった任天堂の戦略があり、偶然にもテレビから離れつつあった子供達にうけいれられたからである。
 本書の限界は「次の時代」にある。つまりファミコンブームが去っていった後、果たしてゲーム業界になにがおこったのかが書かれていない(まあ当たり前なのだが)。また、開発史においてやや論理的に混乱している箇所(アタリショックのあたり)があり、そこをが少し分かりにくい。文化史についても、もう少し詳しい記述が欲しいところである。

書評 さやわか『僕たちのゲーム史』

本書の目的意識

 著者は次のようなビジョンをもってビデオゲームの歴史を見ている。日本は物語性を重視したゲームを長年作り上げていき、一方のアメリカはゲーム内への没入性や競技性を重視したゲームを作り上げてきたという視点である。この視点にたって日本のゲームソフトの歩みを黎明期から現代へと見ていき、海外はさらっとふれる程度に紹介をしている。
 「物語をどのように扱うか?」を軸にして日本のゲーム業界をみていくと、やはりスーパーマリオブラザーズやアドベンチャー・RPGが中心になっていく。もちろん逆に言うと、RPGやスーマリこそ日本を代表するゲームなのであり、物語重視の傾向は日本では顕著なのである。
 著者は過去の文献を丁寧に渉猟し、「当時どのように考えられていたか」を綿密に明らかにしている。なのでスーパーマリオブラザーズが今日いわれるジャンプアクションゲームではなく、アドベンチャーゲームとして売られていた、という驚くべき事実も明らかになっていく。

内容

 最初はスーパーマリオブラザーズを詳細に検討し、後のゲームへと繋がる画期的な要素として物語性に見出している。というのもスーパーマリオブラザーズは画面を自由に動かし進んでいくタイプのゲームであり、山あり谷ありの豊かなロケーションを旅する物語でもあるからである。自由にどこにでもいけるため、そこに一種の奥深い物語が生まれる。後のゲームはその奥深さを追求することになるのである。
 アドベンチャーゲーム、シミュレーションゲーム、どれもが物語を巧みに扱ってきたと著者は見ている。そして、無縁とさえ思える格闘ゲームでもキャラクターという物語を取り込んだストリートファイターが大ヒットしたことを踏まえ、物語とのつきあい方が日本のゲーム業界を貫く一本槍であったと述べている。
 以上のような物語とのつきあいが最高潮に達するのが1997年の『ファイナルファンタジー7』や『YU-NO』である。RPGは『イース』以降に物語を重視する方向を推し進め、また『YU-NO』は物語をそのままゲームとして提示しようとするノベルベームに分類される種類のゲームである。どちらも97年に発売され、97年以後はゲーム業界の売り上げが低下していくという点で著者によるとかなり意味深いことでなのであった。
 と同時に97年以降、同人ゲーム、ポケモンといったものが売れていく。同人ゲームはノベルゲームが中心となって活気を呈し、00年代には東方シリーズがシューティングゲームにキャラクター性を取り入れ爆発的大ヒットをとばす。また、とりわけポケモンはゲームに「ゲーム外コミュニケーション」を取り入れた画期的なゲームであったとされる。なぜなら次の時代以降もゲーム外のコミュニケーションを重視させようとする傾向が強くなっていったからである。その代表例が『高機動幻想 ガンパレード・マーチ』であった。このゲームは謎をちりばめていってゲームの中で多くを語らず、ユーザーコミュニティがゲーム世界の姿を語り合っていくというものであった。ユーザー同士の交流を促進しようとした点でゲーム外コミュニケーションの代表例と言えるだろう。
 そして時代は下り、現代ともなると、ゲーム内外のコミュニケーションに差がなくなってくる。物語中心のゲームは斜陽となり、技術力の向上も相まって、オンラインゲームが流行するのだ。例えば『モンスターハンター』はオンラインゲームでもありながらゲーム外コミュニケーションゲームでもありうる代表例である。ソフトとハードをもちより他人と遊ぶオンライン要素と、高校生なんかがコミュニケーションをとる手段として一緒に遊んでいる姿を思い浮かべてみれば明かであろう

 ついでにいいえば00年代半ば頃からアメリカのゲームが日本へ頻繁に紹介、ローカライズされ一定の市民権を得ている現状を、アメリカのゲーム事情とからめてちょっと紹介してある。

評価

 「物語の扱い方」を軸にゲームソフトの歴史を俯瞰した結果、ブレのない記述ができている。いままで明確な方法を意識したゲームソフトの通史が少なかったため、今後は『僕たちのゲーム史』は必読文献となりうるに違いない。また、文献を引用する方法もきちんとしており、ビデオゲームの批評のみならず研究をする際にも十分に耐えうる本である。当時の資料を発掘していく中でスーパーマリオブラザーズのアドベンチャー性など、新たな事実を発掘している点は誰もが驚くだろう。同人ゲームやノベルゲームへと目を配っている点は東浩紀などの議論を踏まえており、先行文献からのつながりもしっかりと得ている。
 しかし問題点はいくつか指摘できよう。まず海外ゲームの扱い方が簡素でしかありえず、「僕たち〈日本人の経験した〉ゲーム史」になっている点が指摘できる。著者の見方によると物語をどのように扱うかが海外と日本では異なるとのことだが、00年代半ばからは物語を重視する海外ゲームがどんどん作られ日本でも発売されている。このような状態を上手く説明できてないように思われる。
 次にサッカーゲームやレースゲームなどの純粋な競技に近いゲームソフトの歴史が抜け落ちている点も指摘できる。海外ゲーム事情の端折り方も含め、著者の取捨選択によって紡ぎ出された通史は魅力的ではあるが、わざととはいえ見落とされているのもたくさんあると言えるだろう。むしろ著者がツイッターで述べていたように、『僕たちのゲーム史』で書ききれなかった要素を補完していく研究が今後望まれる。

書評  多根清史『教養としてのゲーム史』(ちくま新書、2011)

本書の概要

 『教養としてのゲーム史』は、ビデオデーム愛好者の内々で語られ共有されてきたオタク語りともいえる薀蓄・レビュー・考察をわかりやすい形でまとめ(p10とp212参照)、著者独自の見解も入れながら、主に80年代と90年代初頭のビデオゲームソフトウェアを解説した本である。その際の視点は、ハードウェアの制約がソフトウェアに与える影響、ソフトウェアが次の時代に与える影響(著者は「進化」と呼ぶ)に重点を置いている。

 ところでオタク語り言説を分かりやすい形で整えた本に、同様な名前の大塚英志,ササキバラゴウ『教養としての〈まんが・アニメ〉』(講談社現代新書)がある。そちらでは端的に言えば、「後世に残されるべきまんがとアニメを紹介する」のが役割であるとまえがきで宣言されている。『教養としてのゲーム史』もまた同じ目的意識をもった本と言えるだろう。ただし、教養の意味が〈まんが・アニメ〉の場合は本の内容と結びついているのに対し、『教養としてのゲーム史』は「ゲームを語るなら知っておきたいよね」というスタンスで意味づけされている点に違いがある。

内容の簡単な紹介

 著者が大枠で使った視点が「固定画面」「スクロール画面」「ロールプレイングゲーム」「シミュレーションゲーム」である。
例えば「固定画面」ではファミコン以前の『ポン』から『ブレイクアウト』『スペースインベーダー』『ギャラクアイアン』に続く固定スクロールゲームを具体的に見て、ひとつのゲームが次のゲームにどのような影響を与えたのかをハードウェアの性能向上(=ハードウェアの進化)、とソフトウェアの改良(ソフトウェアの進化)の両輪による螺旋状の進化になぞらえている。
 「スクロール画面」についても『スクランブル』『ゼビウス』『スーパーマリオブラザーズ』が進化の過程に描かれ、「ロールプレイングゲーム」も『ウィザードリィ』『ドルアーガの塔』『ハイドライド』『ドラゴンクエスト』と、有名なゲームに連なってゆく様子が書かれている。
「シミュレーションゲーム」は論理展開が少し逆転している。そこで現実を写し取ろうとする欲望の中でハードウェアとの制約と格闘しながらソフトウェアがどんどん現実へと近づく模様(進化)が描写されるのだ。

評価

全体的に進化の過程を描き出そうとする点は成功しており、著者独自の見解(「見立て」など)も面白い。と同時に紙面の都合もあるのだろうが、中途半端な地点で終わっている箇所が多い。果たして『スーパーマリオブラザーズ』以降のスクロール、箱庭ゲームがどうなったのかが書かれていないのだ。他の要素についても言えて、著者のやりかたは80年代のビデオゲームを分類するには非常に最適なのだが、90年代半ばに入って3D化がすすんだあたりで限界が来てしまう。そこで話が一気に飛んでしまい、『ときメモ』から『ラブプラス』に話が飛躍し、終わってしまうのだ。また、海外ゲームについての考察も不十分である。進化という意味ではサッカーやレースゲームも適当な例にあげられようが、本書では全くふれられていない。

3Dゲームの語りにくさは決して著者の問題にのみ帰着されるわけではない。2Dとは異なる枠組み、そしてハードウェア論争によってゲームソフトを語る楽しさは一歩引いてしまった感が90年代~00年代にはあるのだ。その語りにくさを如実に示している本と言えるだろう。

ビデオゲームにおける作家性と批評

 このコラムはビデオゲームにおける作家性を考え、批評がどのように広がっていくかをスケッチするのが目的である。6000文字あります。長いです。
 まず、意味があやふやになっては困るので作家性を定義する。「個人の行為の結果、ありきたりではなく独特のものが生み出されるとき、作家性がある」としておこう。すなわち読んだだけであの人とわかるような文章であれば作家性があると言える。一方、新聞のようにどこにでもあるような言い回し、文言、構成、内容でつくられた文章には作家性が見あたらないと言うことができる。

ビデオゲームにおける二重の「作家性」

 ふだんあまり意識しないものではあるが、実のところビデオゲームには二重に作家性が存在している。ひとつは作り手側の作家性である。どのようにプログラムを組むか、音楽を組み入れるか、ゲームバランスを調整するか、物語をつくるか、といったものを想像してほしい。例えば堀井雄二が関わった『ドラゴンクエスト』のようなゲームでは他のゲームには見られない言い回しがあったり、主人公が一切喋らないなどのルールが設けられている。そこに私たちは堀井雄二の作家性を見出すわけだ。
 もうひとつの作家性とは、遊び手側の作家性である。ここが小説や映画と大きく異なっている。というのも、ビデオゲームでは受け手が作品そのものに参加してゲームを作り上げてもいるからである。小説において自分が作品世界の中に入り込み、文章を変えていくことはふつうありえない。しかしビデオゲームではプレイヤーがゲームの中の物語をある程度変化させてしまう。こちらの作家性については後に詳しく見る。

作り手側の作家性は本当にあるのか?

 作り手側の作家性は自明なことのように思うかもしれないが、よくよく考えてみるとあやふやだったりする。確かに昔のゲームであれば一人や複数人でプログラムや音楽、デバッグまでやっていたので、作家性は強く出ていたに違いない。一方で、昨今の百人規模で作るゲームにおいて明確な作家性が見えにくくなってきているのも事実なのだ。

 小説が個人の創作の結果生まれ出されたものであるから作家性があるというのは容易に理解できるにしても、ウィキペディアの記事に作家性があるとは誰も言わないはずである。もしウィキペディアの記事に他の百科辞典や概説書に見られない表現があるとすれば、それは「ウィキペディアというシステムによってユニークな書き方が生まれた」と説明するべきである。または「ウィキペディアを編集する人の集団がもつ一種の特性」であるとか、「日本語版ウィキペディアを編集するのは日本人だから、日本人ならではの表現になっている」と解説する場合もあるだろう。つまり個人が消えていくに従って、アーキテクチャという制度や社会を形作る枠組みや、人がたくさんより固まってできた集団や民族という概念を用いたほうが据わりが良いのである。個人の分析に使うべき方法をそのまま集団や社会にむけて使ってしまうのは危険だ。
 であるから、少人数で作ったビデオゲームと大人数で作ったビデオゲームをまったく同じように語ろうとするとどうしても無理が生じてしまうはずなのだ。個人に帰着できる作家性があるものと、なかなか見えにくかったり無くなってしまったものを同等に批評するのは難しい。

 ついでにいれば、大人数がかかわると角が取れた製品になりがちで、語るべき箇所がどんどん取れていってしまう。ありきたりのゲームを語るのは難しいが、クソゲーほど語りやすい対象はない。そして続編が発売されても前作のマイナーチェンジであったりすることも多く、ここに到ってビデオゲームは、語るべき作家性をもった作品というよりも大量生産される工業製品のような存在に生まれ変わっている。工業製品の差異を比較したり批評しようとすると、どうしても「価格コム」や「アマゾン」の口コミレビューに溢れている値段やコストパフォーマンス中心の、買って得した損したでしか切り口のないやり方にならざるをえない。しかし私はそのような方法は間違っていると思うのだ。ではどのような手法が望ましいか、と言われてもなかなか答えがでていないのだが、強いて言えば遊び手側の作家性を生かしたゲーム実況が一つの解決策だと考えている(詳しくは後回し)。

インディーズ・同人ほど語りやすい

 というわけで少人数でクリエイターの個性が出やすいインディーズゲーム、同人ゲームほど語りやすいのである。なぜならば、批評は作家性をもとにするとやりやすく、また多人数が関わる前のデコボコした部分をもっていると尖った部分を語りやすいからである。ビデオゲームに関する優れた論考が80年代のゲームに多く、また同人ゲームはディープに語られているのも不思議ではない。
 このように考えていくとみえてくるのがインディーズゲームである。いまやインディーズゲームは数年前には考えられないほど盛況だ。やはり少人数で作っているので、個性派ぞろいのものがたくさんある。色々と語りたい人間ほどディープな世界へむかっていくこともあいまって、ゲームを語りたいと考えている人がいつのまにかインディーズゲームだけにしか集まらなくなってしまう未来がいつか来るかもしれない。そんな未来は想像したくもないが。

角が取れた大作をどのように批評するか?

 問題は角が取れた大作ビデオゲームである。作り手側の作家性が見えにくく、語りやすい尖った部分もみえないものをどう批評するべきなのだろうか。ここで二つの方法を提示しよう。ひとつは作家性に依拠することなく批評する方法を持ち込んでしまう方法で、もうひとつはゲームの実況プレイである。

 作り手側の作家性に依拠することなく批評する方法とはなにも難しいものではない。たとえば、ビデオゲームのなかでとあるモチーフがいかにして使われているかを追ってみるのがたやすい。具体的には銃である。そのゲームソフトにおいて銃がどのように使われているのかを詳細に見て、銃といかなるつきあい方をしているのか書いてしまうのである。そして他のソフトウェアを比べてしまおう。別に銃でなくて飲み物、天候、女性、思想、なんでもよい。対象のソフトウェアに明確な「制作者の意図」がなくとも、何かしらの批評は書けてしまうはずだ。ただしこのような方法はどっちかというと映画批評で使われている。ほかにもたくさんの種類がある映画批評をそのままビデオゲームにもちこんでしまうと確かに何かしらの文章は書けるだろう。しかしこのやり方ではゲームとはいかなるものか?について思索し、通過した成果が見られない。
 ではゲームシステムについて詳細に考え、構造を分析し、誰が作ったのかをまったく考えないようにしてしまう方法はどうだろうか。具体例としては、対戦ゲームの武器やキャラクターごとのバランス、必殺技やマップについての考察とを書いてしまうわけだ。ビデオゲームのもつ独特のバランス感覚を描こうとする点で、さっきの批評よりも「出来合い」ではなくなっている。おそらく、いまビデオゲームを批評しようとするとガッチリとした理論みたいなものがないため、このあたりが限度になってくるのだと思われる。が、更にビデオゲームの特性を生かした手法が存在する。それがゲームの実況プレイなのである。

ゲーム実況プレイはひとつの批評である

 ビデオゲームの実況がいかにして批評となり得るか、については金田淳子の考察「ゲーム実況、そして刺身 ゲーム実況プレイ動画についての覚書き」(『ユリイカ 特集*RPGの冒険』2009年 4月号)によって明らかにされている。以下、すこしだけ紹介しよう。
 金田によればビデオゲームは

「コントローラーを握る者(プレイヤー)だけがゲームを経験しているのではなく、それを後ろで見ている家族や友人がいる場合、そのような者も、部分的にゲームを経験している」(p186)

とされる。そして、

ゲーム実況における視聴者という位置は、ゲーム経験という意味では、実況者(プレイヤー)を隣で見ている者の位置と、それほど変わりはしない…『ゲーム実況を見る』経験は、『(実況者と一緒に)ゲームをする』経験に近似している」(p187)

と論じられ、次にゲーム実況の面白さについての核心に迫っていく。

文学理論の世界ではテクストはそれ自体では意味をなさず、読み手が解読してはじめて意味が生まれるとする考えはもはや常識の域であろうが、ゲームにおいてもまた同じことが言える」「文字列の解読だけが物語ではなく、プレイヤーの膨大な回り道や試行錯誤、失敗、リロード、親指の腹が痛むほどの○ボタン連打、さらにリロード、その合間に刺身・・・・・・こういった全体はゲームの物語生成である

つまり

ゲーム実況の面白さ…とりわけ、自分がクリア済みのゲームの実況を見ることの…面白さ…は『同じゲームだけど、別の物語』だからである」(p188)

最後に批評との関係性が語られる。

批評の役割のひとつが、そのテクストについての新たな読解の発見であるならば」(p189)、『同じゲームだけど、別の物語』を生み出すゲーム実況は批評そのものに他ならないのだ。

 以上で金田の論考の紹介を終えるが、ここには遊びとビデオゲームに関する重大な接点が隠れている。次項でそれを説明し、この短い記事を終えようと思う。

手段と目的が渾然一体となった「遊び」の楽しさを伝える実況

 「遊び」は大人の社会生活において望ましくないものとみなされている。なにも生み出さないばかりだけでなく子供じみているため、大人はやるべきものではないとさえ言われている。なぜなのだろうか。おそらく「遊び」は手段と目的が渾然一体となっているからだ。

 人は遊んで楽しいと感じるとき、「遊び」を手段にして楽しさを追求しているわけではない。逆に「遊び」を目的としてただやっているわけではない。実際のところ、遊ぶことと快感を得ることはほぼ同時に立ち上がっているのである。このように同時に「遊び」と快感が渾然一体となったとき、人は夢中になれる。没頭できる。我を忘れてわき目もふらずに遊んでいるとき、何が目的で何が手段なのかわからない、いや、遊ぶことを手段にして遊ぶことに没頭している。この様子を傍目から見ると一心不乱に遊んでいる様子は奇妙なものに映るに違いない。なにか精神に異常を来しているのではないか、或いは中毒症状のあるクスリを飲んでいるのかとさえ疑ってしまうかもしれない。病気や中毒者と外観からは区別がつかないのだ。
 また、手段と目的をごちゃまぜにしてしまう態度は、現代の社会生活においてかなり嫌われている。例えば近代人・・・ともいうべき人間像は、何かしらの目的をもって手段を適切に利用する行動する姿を理想としている。グーグルで「手段 目的 混同」とでも検索してみれば、なにやらコンサルタントやMBAやらのビジネス人のありがたい自己啓発のような意識高い発言をいくらでも拾うことができる。そこでは手段と目的の混同や転倒は避けるべきだと述べられている。確かに効率よく仕事を行ったり、現代社会で賃金を得て暮らしていくには手段と目的を的確に分けるのは必要なのである。自律した意思をもって自己の運命を切り開いていく、パワフルでバイタリティーに満ちた人間こそ望ましいとされている。だから、なんでもない遊びに熱中して非生産的な活動を行う人間は居場所がない。ただひとつ遊びが許されるのは、リクリエーションとしての遊びだけだ。つまり、仕事を行うためのリフレッシュをするための手段としての「遊び」なら手段と目的を混同しないので、やってもいいことになる。
 手段と目的が一体化してこそ意味のある「遊び」とほぼ同じ位置にある人間の活動は食事である。食事をとることによって明日生きるためのエネルギーを得ることはできるだろうし、食べなかったら食べなかったでお腹がすいて不快になってしまうので、一見すると手段の意味合いが強いように思える。しかしながら、食事をとるときは単なる栄養補給だけが目的なのではない。食べること自体が楽しいはずである。「遊び」と同じように、手段と目的をごちゃ混ぜにしてただ目の前にある食事を口に運ぶことこそ、食べる行為そのものである。忙しい現代人のための食事と銘打った加工食品の、単調で味わいもなにもない味を想像してもらいたい。食事に熱中させないように作られた、ああいう時間を節約するための食品に食べる楽しみなどほとんどありやしない。

 ビデオゲームにおいての批評というと、どうしてもゲームをやり終わった後にクールダウンをして、時間をさかのぼるように言葉によってゲーム体験を紡ぎなおさなければならなかった。遊んでいるときの熱中している様子や試行錯誤の過程はほとんど無視されてきたと言っても良い。しかし、ゲームの実況プレイはそれを変えた。遊んでいるときの興奮や錯誤といった、文字に表しにくいものをそのまま伝えてくれる。ビデオゲームは基本、「遊び」である。「遊び」は手段も目的も区別がつかない遊びの瞬間にこそ本質がある。その瞬間を的確に他者へ伝えるゲーム実況の即興性にはゲーム批評の新たな地平が開けていると言える
 『孤独のグルメ』という漫画をご存じだろうか。もともとは90年代中頃に連載されていた漫画で当時はそれほど人気があるわけでもなかったのだが、インターネットや口コミによって文庫版がロングセラーになった。サラリーマンが一人で飲食店に入っていき、ただひたすら食べて、様子を実況するだけの漫画である。これと有名なグルメ漫画の『美味しんぼ』は対照的だ。『美味しんぼ』は食に関する薀蓄を語り、好き嫌いを披露する。
 そしていま、食べログにおいては『孤独のグルメ』のような「実況」と『美味しんぼ』のような「薀蓄」の勢力が入り乱れているらしい。食べる瞬間の魅力を伝えるのか、それとも食にまつわる話を伝えるのか。どちらが正解というわけではない。どちらもあって良いはずだ。ビデオゲームにおいても、同じことが言えるだろう。

 

 

注)批評とはいかなるもなのなのかは永遠に解決しない問題ではあるが、今回の記事では「新たな解釈を生むもの」として扱った。きちんとしたビデオゲーム史をつくることは目的としていない。
また、ゲーム実況プレイによってすべての批評が駆逐されるわけではなく、いままで通りの批評とは両立するものだと思っているし、なによりもっと洗練されるべきだと考えている。
最後に『PLANETS VOL.08』の食べログ特集における『孤独のグルメ』と『美味しんぼ』の対比、『PLANETS VOL.07』(どちらも第二次惑星委員会発行)のビデオゲーム特集を再読してわき上がったイマジネーションをもとにこの記事を書き、いくつかの考えや用語を引用していることを付記しておく。