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FPSが日本で主流とならない理由 --FF2400-- ゲームのレビュー・紹介

FPSが日本で主流とならない理由
2010年9月
1.はじめに

日本人はFPSを初めとする海外ゲームを遊ばないといわれている。
今回は「ゲームに慣れること」や「リテラシー能力」を中心に、日本人がFPSをやらない理由を考えていく。
結論は簡単である。
日本人はFPSをやりなれていないために、FPSをやろうとしないからである。
これはひとりの消費者だけでなく、ゲームを開発する人たち、広告や広報に携わる人、ゲームを紹介する雑誌メディア全員に当てはまる。


2.リテラシーの有無で楽しみ方は変わる

ビデオゲームをするときは、まずゲームの操作に習熟することが大切だ。
思い通りに操作できるようにって始めてビデオゲームの本来の姿が見えてくる。
これは読み書き能力を意味する英語「リテラシー」という言葉で端的に表すことができる。
つまりリテラシーを身につけたときにビデオゲームは楽しくなる。

ほかのものを例に挙げて考えてみよう。
日本では鰹節、煮干、昆布などのダシを使った料理が多い。
小さいころから日本で育った人は、海産系のダシの味に慣れている。
しかし海外の特に内陸国で生まれ育って人が日本料理を食べると、そこに魚の生臭いにおいを感じ取り、嫌悪をもよおすことがあるという。
同じ人間なのにこうした価値観の違いが生まれるのは、ひとえに食べなれているかどうかに関係している。

日本ならば、愛知県でしか食されない八丁味噌・東日本中心に食されていた納豆・南日本で栽培されていたニガウリが好例だ。
ある地域で食されている食べ物が、他地方の人間にとってはゲテモノに近い存在になりうる。
しかし不思議なことに、人は食べ続けるとおいしく感じてしまう。

これは食べ物自体にに舌が慣れたと考えるよりも、舌が食べ物のおいしさを発見できるように「変化した」と考えたほうが適切だろう。
単純に慣れる慣れるの問題ならば、そこに美味しさを見出すことはできないからだ。
味覚が変わることで、食べ物を美味しく感じられる。

ゲームにおいても、FPSにおいても、ある程度の時間やり続けることで面白さを発見することができる。
買ったときは面白く感じなかったゲームが、いつの日か面白く感じられるようになってくる。
極端な例はクソゲーであってもそこに強引な楽しみを見出すクソゲーハンターみたいな人種だ。
クソゲーハンターは、クソゲーに合うように自分を変容させていく。

ところがここで大きな問題がある。
人は慣れていないものを積極的に受け入れにくいのである。
自発的に未知の領域に踏み出すということはなかなか億劫である。
特にビデオゲームのような娯楽は「楽なもの」を得るためのものだ。
娯楽を消費する際、わざわざ労力をかけるべきという筋合いはまったくない。


3.日本人はRPGの識字能力(リテラシー)が高い

そこでRPGというものが日本人にとっては非常に「楽な」ジャンルとして存在している。
ドラゴンクエスト・ファイナルファンタジー・ポケットモンスターのどれかに触れたことのない人は殆どいないはずだ。
だからマイナーなRPGでも私たちは躊躇することなく買うことができる。
携帯電話でも売り上げの上位にRPGは必ず来ている。
RPGにはRPGなりのお約束というものがあるので、タイトルが違っても大した労力を使わずに、ゲームプレイに熟練しやすいと言える。

国民的ジャンルともいうべきRPGが確固たる地位を固めたのは、90年代半ばのスクウェア黄金期と重なっている。
当時は任天堂を凌駕するのではないかというぐらいスクウェアは良作ゲームを連発していた。
ドラゴンクエストの二匹目のドジョウを狙ったスクウェアの、さらに三匹目のドジョウを狙うかのように、PSやSSにはRPGがひしめいていた。

これは、消費者がRPGに飢えていたことを示し、開発者もRPGを開発したいたことを示している。
もちろん広報の人たちもRPGは高い売り上げを約束する人気ジャンルとして認識していただろう。
今でも以上のようなRPG信仰は形を変えながら息づいている。

ところがRPGが人気ジャンルとなったことで日本のゲーム業界は続々とRPGばかり作るようになり、ユーザーもRPGをひたすら遊びとおした。

ほぼ同時期にニンテンドウ64でゴールデンアイやパーフェクトダークがそこそこのヒットとなるも、大きなブームとならなかった。
ブームにならなかった理由は、007が日本でウケない、ニンテンドウ64の売り上げがイマイチという理由もあるだろう。
しかしなによりも売れ筋のジャンルから外れていたため、雑誌メディア・広告業者・消費者すべての人たちが敬遠をしてしまった可能性は否定できない。
RPGがあったから見たことも聞いたこともないジャンルのゲームは霞んでしまったのである。


3.リテラシーの差

ここ数年ゲームが複雑になったといわれる。
シリーズもののゲームの宿命は複雑化である。
どんなゲームも「2」「3」と続編が出て行くうちに、追加要素がたまっていって複雑なっていく。
つまり必要とされるリテラシーの程度が高くなってしまうのである。
ここに、ゲームを遊ぶための不要な労力が生まれる。

リテラシーの差が何を生むのかについて、まずはロックマンを考えてみる。
みなさんご存知のとおり、派生シリーズを含めると膨大な数に登る有名なゲームシリーズである。
ところがロックマンシリーズも続編化の毒に苦しめられていた。
新作や新シリーズが出るごとにストーリーは付加され、覚えるべき操作が増えていった。
そこで最新作となるロックマン9と10では、逆にファミコン時代の「わかりやすさ」を全面的に押し出したゲームに仕上がっている。
ファミコンテイスト溢れるロックマン9や10でリテラシーが低い人、または昔のままで止まった人をターゲットにしたのだ。

同じような例としては、任天堂のNewスーパーマリオブラザーズ、同Wiiも忘れてはならない。
今では絶滅危惧種となっている2Dスクロールアクションである。

いま発売されているFPSはチュートリアルがしっかりしているように見えて、実は「FPSをやったことがある」というリテラシーを前提としている。
FPSといえばアメリカではゴールデンアイ以降にHALOというカジュアルゲーマーを大量に取り込んだゲームがある。
RPGにおける日本人にとってのドラゴンクエスト・ファイナルファンタジーは、FPSにおいてアメリカ人がゴールデンアイやHALOに抱く感情と似ている。

日本に入ってくるFPSはほぼすべてが「アメリカのビデオゲーム文化における」暗黙の了解を身にまとっている。
たとえば戦争ゲームにおけるショットガン、サブマシンガン、アサルトライフル、スナイパーライフル、マシンガンの違いというのは、戦争FPSをやったことのある人でないと分からない。
私は、ショットガンが近接する相手にしかダメージを与えられないというオキマリを丁寧にわからせてくれるゲームに出会ったことがない。
したがってFPSをやったことのない日本人にFPSをお勧めしても、シリーズ作品をやったことのない人がいきなり最新作をやるときのような、リテラシーの差を嫌がってしまうのである。
いや、未知のジャンルということも含めると壁は見た目以上に高く分厚いものである。
複雑化真っ只中にあるゲームシリーズの最新作をわざわざ買う人は変人である。


4.日本人でもFPSを楽しむ

それでも日本人へFPSを普及させる方法というのはある。
前述のRPGであればドラゴンクエストのようなものが生まれればいいのである。

ドラゴンクエストはポッと出てきたゲームによるただの大ブームではなかった。
当時海外からマニアックなゲームとして知られていた「ウルティマ」や「ウィザードリィ」を解体し、RPGの楽しさを日本人に伝えるべく再構築されたゲームだった。
つまりわかりやすく解説した本のようなものだったと言えよう。

ドラゴンクエストは1、2、3とシリーズが発売されていくごとに海外RPGに導入されていた要素を付け加えていった。
助走路を設けているようなものだ。
こうしてドラクエは3によって当初の役割(RPGの伝道)を果たし終えることになる。
ドラクエ3とほぼ同時期に初代ファイナルファンタジーが発売されている。
後にRPGは国民的ジャンルへと成長していく。

大ヒット作が出てフォロワーが出るというのはゲーム業界が何度も繰り返してきた宿命のようなものである。
そしてフォロワーが新たな可能性を切り開いていく。
ストリートファイターIIでブームとなった格闘ゲームは、餓狼伝説やバーチャファイターというすばらしいゲームを生み出す。
恋愛ゲームのときめきメモリアルがヒットした以降、恋愛ゲームの方向性は著しく変わった。
FPSが普及するためには、日本人のためのFPSが開発され、ヒットしなければ有力ジャンルとなりえないだろう。

(少し話が脱線するが、こうした視点をもつと、日本のメーカーが日本人向けの入門FPSを作るのはメーカーにとってきわめて危険な行為となる可能性がある。
日本のメーカーがFPSを普及させることによって、海外のメーカーもFPSを売るチャンスを得ることになるからである。
将来的には自分たちの首を絞める恐れが存在する。
営利活動を目的とする企業にとって悩ましい選択である。)


現在、日本で人気があるFPSはPCにおけるサドンアタックや、ゲーム機中心のコールオブデューティーシリーズである。

サドンアタックは毎日一万人近くものユーザーが遊んでいる。
初めて触れたFPSがサドンアタックという人も多く、PCにおけるFPSの普及にかなり貢献している。
運営の積極的かつ良質なサービスはよく知られている。
ところがサドンアタックはゲームとして「お手本」にはなりえていない。
いつまでたってもゲームとして出来の悪い旧作に人をつなぎとめ続けているのである。
PCという制約もあって、いまのままではこれ以上の普及は限界に来ているように思える。

コールオブデューティーシリーズは4、MW2ともに20万本以上とも言われるヒットとなっている。
だが残念なことに翻訳の質が悪いなどのネガティブイメージが強い。
そして過去作と比べるとフレンドリーになったとはいえまだまだFPSのリテラシーを必要とするゲームである。
本数で言えば前述の「ときめきメモリアル」は50万本以上なので、せめてCODシリーズは今の二倍以上売りたいところである。

FPSは確実に日本に浸透している。
決して日本人論でひとくくりにされるような文化的な制約が足を引っ張ってるわけではない。
もしそうならば、サドンもCODも売れるはずがない。
しかし、多くの人にとってのキホンとなれるような大作が生まれているとは言いがたい。
いつの日か一定のムーブメントの起こすゲームが生まれ出たとき、私は「FPSが普及した」と判断したい。



以下補足的なことを。

欧米製FPSというのは従来型のゲームが高度に進化した形である。
いわば重厚長大型ゲームの申し子である。
ところが日本では、そうしたゲームの売れ行きが伸び悩んでいる。
「重いゲーム」の市場が狭くなっているのだ。
このままでは、狭くなっていく市場におけるパイの奪い合いにさらされていくのは必然だ。

さらに日本のゲーム市場は世界累計から見ればずいぶんと小さいので、欧米メーカーにとっては力を入れる必要のない市場である。
つまり広告費・開発費その他のカネが日本には投入されない。
FPSは二重の意味で苦境に立たされている。

日本仕様のFPSが作られる望みは皆無といっていいだろう。

任天堂はこのような市場構造に危機を抱き、かつてのユーザーや新しいユーザーを取り込むことに成功した。
同じ頃、オンラインゲームやソーシャルゲームがみたこともないユーザーを掘り起こしてきた。
FPSはそうした人たちにとって無縁な、旧来のゲームである。
このままでは、FPSが普及するかはかなり疑わしい。