トップページ>コラムトップ>コラム(2011年以前)

想像と現実 アイマス騒ぎを見て --FF2400-- ゲームのレビュー・紹介

想像と現実 アイマス騒ぎを見て
2010年9月
アイドルマスター2がさきほどの東京ゲームショウで大変な騒ぎになった。
前作の一部キャラクターが使えないという事態が発表されたのだ(正確にはその前から事実になってはいた)。
しかもなぜか男性アイドルもライバルとしてゲーム中に登場することも明らかになった。
この事態をみたアイドルマスターファンは大激怒した。
ネット上では、使えなくなったキャラクターの復活などを盛り込んだ署名活動まで行われている。

この騒動についての見方はいくつでもできるだろう。
だから個別の解釈は各人に任せるとして、ユーザーが抱いてきた妄想と開発側の作り出した現実の差というのを少しだけ触れてみたい。
なお私はアイドルマスターファンでも何でもない部外者である。


アイドルマスターというゲームはアーケードゲームで出たときはそれほど人気があるゲームではなかった。
言い方は悪いが、私は一部のヘビーユーザーが遊ぶ金吸い取りマシーンのような印象を持っていた。
このアイドルマスターが異常なほど盛り上がりをみせたのはXBOX360版が発売された後である。
動画投稿サイトへの動画投稿が大きな役割を担っていたと言えるだろう。
今でもアイドルマスターの動画はニコニコ動画を中心源に日々投稿されている。

ところがこの動画投稿がアイドルマスターの姿を変えてしまったと私は思っている。
当たり前だけれども二次創作を行うことでキャラクターの人格も、ファンのとらえ方も変わっていく。
ファンはそれを意識することなく、原作のゲームの延長上に自分たちの創作もあると考えているようなのである。
いわばアイドルへの幻想のようなものを常に抱いていることになる。
少し前に人気声優が「素」をさらけ出して袋だたきに遭うという事件もあったが、声優への幻想を抱いていた人たちのやっていたことである。

ただ、コンテンツを売り出す側もそのことを理解しなければならない。
自分たちが作り出したものがいつまでも自分の手中にあるとは思ってはダメだ。
とくに二次創作を黙認することは、良くも悪くもコンテンツの発展をユーザーに託すことにもなり得るからだ。
良くも悪くもファンというのはある程度幻想というかお約束であることを頭の片隅で理解しながら、それでも制作側からお約束を踏まえることを期待している。
つまり彼らの考えているお約束を変えることは一種のタブーなのである。

左の画像は富士山と逆さ富士の写真だ。
ここでは普通の写真とは180度回転させている。
しかしパッと見では、本来湖面に映った富士山のことを本物の富士山だと勘違いしてしまいそうだ。

湖面に映った富士山と、富士山そのものは別である。
私たちは逆さ富士を本物の富士山だと思っていないだろうか?

だから売る側(会社側)は変えてはならないものを維持しながら、続編やフォロワーを出していく。
それがファンを裏切らないこと、ファンの期待に応えることである。

しかしある程度続けるとジリ貧になるのは目に見えている。
このようなジリ貧を打破するには、ある程度「破壊」し「再構築」する必要性がある。
アイドルマスター2の開発者インタビューで見えるのはそのようなことである。
アイドルマスター2の開発者インタビュー

この構造はファイナルファンタジー13でも見られた。
多くの消費者は古き良きファイナルファンタジーを期待していながら、開発されたものはものすごくとんがった最先端のゲームである。
私はレビュー(批評)をする立場なので、挑戦的な試みはそれだけで評価をする。
もっともおそれるのがマンネリと安易な過去への回帰である。
これは何を言われようとも継続していきたいポリシーだ。

だが消費者の考えとしてはまったく理解できるものではないだろう。
FF13に対するユーザー評価は著しく低かった。
ゲームは売れれば正義の面があるので、次作の売れ行きを鈍らせることになり得る結果になってしまったことについて、ゲームメーカーは猛省しなければならない。



design by. (C) WebDaisuki.com