「FPSやTPSは頭の良い人のための頭を使うゲーム」なのか?

Kotakuの記事に「なぜ人は敵を銃で撃つゲームが好きなのか?」だというコラムが載っていた。以下引用。http://www.kotaku.jp/2012/12/why_we_like_to_shoot.html

このコラムの結論は「(あらゆるゲームジャンルの中で)最も素早く直感的な判断が必要とされ、その判断に瞬時に結果が示されるジャンルである」からだとされている。ここにはまあそれなりに同意しておくのだけれども、コラムで引用されている以下の発言には批判を行いたい。
「ほとんどの人はシューティングゲーム(FPS)をわかっていない。しかも率直に言うと、ほとんどのシューティング開発者もわかっていないと思う。シューティングゲーム(FPS)は頭の良い人のための頭を使うゲームだ。
確かに仕組みは簡単だし、手軽に遊べるから気の短い人やあまり時間のない人にも都合がよく、実に幅広い層の人に受け入れられる。でも実際のシューティングゲーム(FPS)はプレイヤーの頭の良さを必要とするものだ。
シューティングゲーム(FPS)と比べて、ターン制のゲームで次の動きを考えるのにそれほど頭を使う必要はない。なぜなら考える時間があるからだ。息をつくヒマがある。考える時間があるほど、より良い決定を下しやすい。ターン制のゲームを馬鹿にしたいわけじゃないし、そんなことをする方が馬鹿げている。
ターン制でもプレイヤーの考える力はもちろん必要とされる。ただ個人的には、ターン制でのプレイヤーの頭の使い方は主に論理か数学的な考えに基づくもので、シューティングゲーム(FPS)が要求する知能ほど刺激的ではないと思う。
シューティングゲームを過小評価する人たちは、よくこんなことを言いたがる。「シューティングゲーム(FPS)なんて、ターゲットを狙ってボタンを押すだけじゃないか」。質の悪い開発者もそう考えているふしがあって、だから彼らの作るゲームはその程度なんだ。
たとえばチェスはわかりやすいゲームだけど、「チェスはシンプルで手軽に遊べるから、頭の悪い人がやる頭の悪いゲームだ」なんて言われることはない。それがシューティングゲーム(FPS)だと、人はいつもそう言いたがる。
シューティングゲームで必要とされる思考力をここに並べてみる。
論理・数学:シューティングゲーム(FPS)ではリソース管理が重要。残弾数はどのくらいか? 今後どれだけ消費するか? 現在のリソースを売ることで購入できるアップグレードは?
空間認識:自分と自分以外の物の位置関係は? 敵はどこから撃ってくる? 敵はどこに向かって動いている? 自分はどこに向かう? どこに向かって撃つ?
対人:自分のいる方向に攻撃してこないかどうやって確認する? 敵を自分の射程範囲に誘い込むにはどうしたらいい?
身体・動作:現在の位置関係ならエリア内でどう動くべきか?
さらに、これらすべては即時に判断する必要があるため、リアルタイムのプレッシャーも加わることになる。
右エリアに行くのをやめるか? 今の残弾数は? あいつを射程に呼び込むにはどうする? さっきいなくなった敵は奇襲をかけてくるんじゃないか?
ゲームのプレイ中、常にこれらを考え続ける必要がある。確かにシューティングゲーム(FPS)は誰でも遊べるが、上級者になるには相当の思考力と精神的な鍛錬が必要とされるのだ。
シューティングゲーム(FPS)は間違いなく最も知能的なゲームの一種だ。僕はコンボの組み合わせを覚えたり、RPGで次の一手をじっくり考えたりすることに興味はない。それは僕の知能をあまり必要としないからだ。
だがシューティングゲーム(FPS)は? すごく頭を使う。頭の良い人のための頭を使うゲームだ。素晴らしい。」

試合では思考力だけではなく、無意識にも動いているはずである

(おそらくタクティカルではない)シューティングゲーム(=FPS)で必要とされる思考力にはいくつかのものがあると書かれ、「リソース管理」「空間認識」「自分と味方との連携や敵との駆け引き」には相当の思考力が必要だとされている。なのだけれど、ここがちょっとおかしい。というのも、瞬時の判断が要求される試合ではいろいろと考える暇なんてものはないからだ。試合中は考える暇もなくゲームが進行せざるを得ない。いちいち考えていたら、考えている間にやられてしまう。格闘ゲームでもFPSの試合でもテトリスの上級者モードでも、柔道剣道すべて同じである。

実際の試合では考えることなく、まず先に体が動いている。要するに大脳を経由することなく目から入った情報がそのまま神経を刺激して筋肉を動かしている。体を動かさないときでも視覚情報はすべて感覚的につかまれている。細かい数値計算なんてのもなかなかできない。

ではなにを元に動いているのかというと「練習の成果である。引用記事のいうところの思考力ではない。私たちの体は練習を行うことによって、動きや感覚を体に覚えこませることができる。とてもわかりやすいのが野球やゴルフなどの素振り、または空手の型である。空手の型は日常生活の動きとはまったく異なるためなかなか身につかない。そこで一挙手一投足すべてに意識を集中し、型をなぞる練習をする。はじめのうちは頭の中で型の動きをトレースすることがむずかしいが、繰り返し練習していくうちに意識することなく型をなぞれるようになる。そしていつしか頭のなかでは完璧な型を行う自分の姿がイメージできるようにまで上達する。野球のバッティングや投球練習でも同じことがいえる。プロ野球選手がフォームを改造するとき、必ずフォームを「固める」ために素振りやら投げ込みを行う。この「固める」という作業にこそ練習をする意味を見出せる。

更に練習が高度になってくると、今度は練習で身に着けた型を組み合わせたり実戦とほぼおなじような形式で行う。そこでは、野球ならばピッチャーの投げるボールを打つといった複雑な状況判断と身体動作が必要になってくる。最初のうちはうまくいかないのだが、練習を続けていくうちにある程度は上達していくはずだ。ここでは単に体を動かす動作に加えて、目から入ってくる情報とが関連付けられている。

以上のような練習を踏まえた上でいざ実戦を行うと、まぎれもなく体は動いてくれる。しかも無意識にうごいてくれる。練 習によってさまざまな場面と状況を自分の中に覚えこませ、意識することなく最善の解を出せるようになったとき、未知なるもの対しても適切な動きが出来るよ うになっているのだ。違う言い方をしよう。思考しなくても良いように体にいくつもの動きを覚えこませなければ、体は瞬時に動いてくれないのだ。

練習の果てにあるものは・・・

FPS の話題に戻る。FPSでも同じことが言える。練習や気軽なゲームで立ち回りとか照準を合わせる能力を磨いていく。そうして最初はぎこちなかった動きも無駄 のないキリリとしたものに変わっていく。練習では秘密の作戦や秘蔵の攻撃方法も行うだろう。いつしかくる実戦では、練習によって身につけた作戦や攻撃が威 力を発揮する。

はっきりいって試合では練習で出来なかったことが突然出来るようにはならない。練習でできることしか試 合ではできないのだ。しかも一瞬の判断が命取りとなるため、練習によって体に覚えこませた動きしかできない。しかし、練習によって身に着けたことが多けれ ば多いほど、まったく予想だにしなかった驚異的なプレーも生まれてくる。つまり無意識にできるようになった動きがいくつも組み合わさり、本番では自分の意識を超えたプレーへと昇華する場合があるの だ。これこそよくいわれる「無我の境地」であり、「考えるな感じろ」の世界である。絶対に失敗することの出来ない緊張感の中、歓声はやんで周りの風景は姿 を消し、体が動くままに動く。そんな感覚をもったことはないだろうか?ピアノの発表でもバレエの公演でも演劇でも、何かが乗り移ったかのように体が動く感 覚に覚えはないだろうか?

ところで体に覚えこませたものは一体なんだったのだろうか?あえて言うの ならば「観念」である。型だろうとなんだろうと、とにかく最初は頭の中で必死に思い浮かべながら身に着けなくてはならない。また、日常生活で身につけられ ない動きはすべて観念的につくられたものでしかない。しかし人間は不思議なことに、実体のない思考回路を体に覚えこませて文字通り体現することができる。 体はときとして心と一体となりうるし、また心より先に動き出し、心よりも柔軟なのだ。

体系化と批評について

ビデオゲームのレビューを書いていて、体系化」はきわめて難しいと感じ入ります。「体系化」とは何ぞや、と思われるかもしれませんが、わかりやすくいうと「AとBは○○の関係があり、BとCは××の関係がある」といったように、ものごとを関連付けることを意味して私は使っています。

体系化を経ていない文章は読み応えがありません。まるで内部で分裂しているかのような印象を受けます。そして時間がたつと風化します。だからといって体系化すればいいのですが、そう簡単にはいきません。

批評や講評をする前に行う分析対象の精査はおおかた以下のようなことを繰り返しますよね。

1.分析対象を大雑把に把握する

2.分析対象を各要素に分解し、詳細な検討を加える

3.詳細な検討を加えた各要素はもともと分解されたものだから、改めてひとつのものとして組み立てなおす

4.分析対象を新たな視点で把握する(以下2にもどる)

わたしの思うに「3」がきわめて難しい。 「改めてひとつのものとして組み立てなおす」というのは自分なりの解釈が入り混じるため、そう簡単にはでてこないからです。私の書いたレビューを見直してみても、「2」まではできていて「3」まではできていないものがたくさんあります。インターネットでみかけるレビューでも、「3」をうまいこと行っているものはあまりないですね。

あれが面白い、面白くない、このシステムは良い、悪い。ここまでは楽なのです。しかしその先、あれとこれはどのように関連し合っているか、そういうところを記述するのは難しい。

もうひとつ、分析したいものを評価するとき大きな流れに位置づけてみるという手法があります。それは以下のとおりです。

1.分析対象を大雑把に把握する

2-a.分析対象を同じジャンルや同じ部類のものと比較する(横をみる)

2-b.分析対象の所属する領域について歴史的に回顧する(縦をみる)

3.その上で分析対象を大きな流れのなかに位置づける

4.分析対象を新たな視点で把握する(以下2にもどる)

ひとつの分析対象の精査とほとんど同じなのですが、対象が広がっています。お気づきの方はいるとおもいますけれど、これはつまるところ「歴史を記述する」という方法に似ているのですね。ここまでくると参考にするべき対象が増えて、自分の好きなように書くわけにはいかなくなります。好き勝手にレビューするカタルシスはなくなってしまいます。ですが自分の解釈と実態との乖離、一致をどのように埋めて一本の筋をとおしてゆくはスリリングな知的遊戯でもあります。

批評というものはどうして行われるのでしょうか?簡単に言うと対象の再評価のためです。つまり「私はAについて××と思ったけど、甲さんは△△と思っている。甲さんの考えをもとにAをみなおすと、確かに△△という面がうかんでくる」、このような体験を促すために行われます。そんなことを繰り返していると、対象への見方が変わってきます。作品に対する考えや印象が変容してきます。そして新たな視点を得たときに、元の対象はまったく違ったものに見えているはずです。

批評とは対象となる作品を何度も楽しむためのものとして存在しています。 対象への見解を組み立てなおし新たな視点で見ようとする姿勢が批評そのものなのです。そして批評をするためには、「体系化」が不可欠です。

常套句について

自分の語彙の狭さを棚に上げて書くべき事柄ではないのかもしれませんが、町の会話や新聞やインターネットにあふれる言葉のせまさにためいきをつくことがあります。あまりにも使い古されていて「効力」を失った言葉があふれているのです。つまり常套句=クリシェのことです。いかなる鋭い切り口と輝きをもった文言であっても、幾度となく使われることによって「人を感化する力」は失われていきます。聞き手や読み手はとるにたらないつまらないものにしか感じず、かつて人々を感動させた言葉はクリシェに成り下がります。

現代のクリシェを生み出すものはなんでしょうか。学校教育の教科書、ラジオ、新聞、テレビ、どれも大量の人々へ同じ言葉を伝えます。皆が皆、同じ言葉を使えばクリシェとなります。

中でも現代日本の書き言葉の常套句について大きな影響を及ぼしているのが新聞、雑誌、インターネットです。おそらく、現代の書き言葉で接する量が最も多いのは新聞でしょう。そして新聞にかかれた文章にはどこか独特の雰囲気があります。政治欄と文化欄では異なるといえど、新聞ならではの書き方があります。実際は「新聞虎の巻」のようなものがあり、それに沿って書くと新聞調の文書に化けてしまいます。別にわるいことではありません。文章とはそういうものなのです。受け継がれてきた書き方があり、発信側の意図と受け手側の目的によって、適切な書き方はかわってゆきます。たまたま新聞の報道ではあのような方式が優れているとみなされてきた、というだけです。ですから新聞のように情報伝達を目的としようとするのならば、新聞をお手本にしても不都合はありえません。

しかし自分が本当に伝えたいことを文章に著すにはまったく適さない方法です。新聞とはほぼ日替わりで読まれて使い捨てにされてゆきます。日がたった新聞が読まれることはありません。もとから表層的な情報を伝えるために存在しています。あるいは、抽象化せずに具体例を出し理論や思想を説明せずに時論を展開するために使われている。そして、突っ込んだ部分に触れないがためにレトリックと装飾をほどこした決まり文句を使わざるを得ないのです。こういった賞味期限が極めて短い言葉を真似してしまうと、薄っぺらく誰にも伝わらない文章になってしまいます。

インターネットにはびこる文章も似たようなものだと私は考えています。長くなってもよいから伝えたいことを懇切丁寧に身振り手振り交えるかのように書かれた文章はほとんどありません。もし情理を尽くした文章があっても「長いから」と飛ばされてしまうのです。その結果、ほとんどがお互いのつながりを意識しあうか、感情の赴くままに書かれたものばかりになってしまう。このような場面で使われる言葉は何でも良い。ある意味言葉でなくてもかまわない。友人と一緒に歩いてご飯を食べるだけでも、あるいは怒りを表すために不機嫌になるのも、言葉は要りません。使う側は言葉で丁寧に感情を描写する必要もない。であるからわざわざ深く考えることもなく使われた「決まり文句」に満ち溢れています。

クリシェで彩られた文章は読み手へのメッセージを発しています。この文章は「賞味期限が短い」「深く推敲して書かれていない」「感情の赴くままに書かれている」「したがって、きちんと読まなくても良い」。たとえ書き手が意図していなくても、常套句はネガティヴな意味を持っています。

 

ソーシャルゲーム『アイドルマスター シンデレラガールズ』について

 ソシャゲはクソゲー? 

今回は『アイドルマスター シンデレラガールズ』というソーシャルゲームについて話をします。ソシャゲはゲームなのかどうか、クソゲーだろうか、そういった方面で語られることは多いのですけれども、この記事ではゲームの一種として扱っていきます。

まずはソシャゲの仕組みをおおまかに説明しましょう。ソシャゲの形式には数多くあれど主流は「カードを育てて戦わせる」カードゲームのようなものです。数多くのカードがあり、そのカードごとに強さが決まっていて、レベルを上げることで更に強くなる、そいった具合です。ただしゲームのルールはいたって単純に作られており、トレーディングカードゲームのような複雑な効果はありません。逆に言えば戦略性皆無のトレーディングカードゲームと表現できるでしょう。

ということはトレーディングカードゲーム的な面白さがソーシャルゲームにはあるのです。トレーディングカードゲームの面白さは大別すると「ゲームで遊ぶ戦略性」と「カードを集める楽しみ」のふたつあります。ソシャゲに戦略性はありませんから、「カードを集める楽しみ」が少なからず受け継がれていると言えます。

 自慢する、という行為 その1 

ではカードを集めてどうするのでしょうか。トレーディングカードゲームをやっていた方はわかると思いますが、カードにはレアリティというものがあります。つまり封入率が低いレアカード(珍しいカード)と、封入率が高いカード(コモンとかノーマルと世呼ばれるカード)が混在しているのです。そこで、例えばレアなカードを引き当てて喜んだり、友人などにレアなカードを見せて自慢したりするわけです。

レアカードは能力や効果が強く設定されていたりあるいはデザインが独特なものであったりするわけで、自慢するだけでなく実用価値さえ出ます。もし実用価値がでてくればカードゲームを遊んでいる人はこぞって手に入れようとします。するとどうなるでしょうか。カードを取引する市場において、レアカードの需要があがり、さらにレアカードの価格(=価値)はあがります。価値が高いカードというのは市場において供給量が少ないことを意味しますから、珍しいレアカードが更に珍しくなってしまうのです。となると、他人に自慢しがいがあるというものです。

トレーディングカードゲームの販売会社はこういった構造の商品を定期的に売り出し、新たなレアカードを生み出します。カード愛好者は新しく発売されたレアカードをこぞって手に入れようとするわけです。新しいカードというのはいわば、他の誰も手に入れてない超レアなカードですよね。相対的にレアリティがものすごくたかくなっているわけです。

ソーシャルゲームにおいても同じような構造になっています。大量に排出されるカードは弱くて実用価値はありません。一方でレアリティが高いカードは強く、またデザインも秀逸なものになっています。そして新しく追加されたレアなカードをいち早く自分が装着すれば、他人への自慢となるのです。

 自慢する、という行為 その2 

ところでソーシャルゲーム独特の自慢行為がもうひとつあります。むしろこっちのほうが重要です。アイテム課金型オンラインゲームにもいくらか共通する要素と言っていいでしょうか。それが「重課金者への羨望」です。

レアなカードは高いリアルマネーで取引されているからヘビーユーザーはすごいといわれる、のではありません。ソーシャルゲームやアイテム課金型オンラインゲームでは、「ゲームの進行を有利にするためのアイテム」が販売されています。そして重課金者は「ゲームの進行を有利にするためのアイテム」を無尽蔵に使っているように他のユーザーからは見えるのです。ここに一種の羨望が生まれます。あまりお金をかけていないプレイヤーが群がっても敵いっこないほどの成績を一人で出すプレイヤーに、多くの人の目注がれるのです。ゲーム側でもトップランカー(トッププレイヤーのこと)やランナー(無尽蔵にアイテムを使うさまを「走る」と形容する)の存在がバッチリとわかるように工夫されています。

もちろんお金を大量につぎ込んでいる人を見て「あれは馬鹿だな」と嘲笑するむきもあるでしょう。が、私がアイテム課金ゲームやソーシャルゲームをやった限りではそういう意見をあまり見かけません。むしろ「アホやな~」と生活を心配しながら褒めている人が多く見られます。お金を使いすぎた人も「自虐ネタ」として笑い飛ばしたりすることもよくあります。

ともかく。ランナーや廃プレイヤーになることは一種の快感を伴います。他人からの視線はプレッシャーにもなり得ますが、病み付きにもなってしまうのです。

 一押しユニット・アイドルのアピール 

ここからはソーシャルゲーム一般ではなく、焦点を『アイドルマスター シンデレラガールズ』に絞っていきます。

『アイドルマスター シンデレラガールズ』はごく普通のソーシャルゲームのシステムを使っています。アイドルを手に入れ、育て、バトルさせていくだけです。ゲームとしてはなんの変わったところもないと言えます。

しかし使われているキャラクター達の良さが他のゲームとは異なっています。統一感のある絵柄に加えてアイドルの種類が豊富で、同じようなキャラクターがいません(実際は多少なりともいる)。割と健全に描かれてもいます。まあ要するにかわいく作られているのです。

であるからプレイヤーとしては、能力値の高いアイドルを他人にみせようとすることもありますが、自分の一押ししているアイドルをわざわざ他人にみえるような位置にもってくることも多くなるのです。つまりレアでなくても自分がプロデュースしたかったり他の人に知ってもらいたい場合、わざわざリーダーとするのです。そして一押しアイドルが例えば新カードとして追加されたとき、もちろんプレイヤーは新しい一押しアイドルを手に入れてリーダーにしたり、他人と話題にするわけです。とくにレアリティが高いアイドルが追加されたときに一押しアイドルを誰よりも早く手に入れれば、「さすがです」「おめでとう」など、反応があったりします。特に上位ランカーはそれが顕著です。

ではなぜこんなことになっているのかというと、元のゲームである『アイドルマスター』が多いに関係していると思われます。つまりアイドルマスターの世界を壊さないようにキャラクターが作らていく。ユーザーもアイドルをプロデュースする立場ですので、お気に入りのアイドルやユニットを「押す」わけです。単純に戦闘を行って上位を目指していくゲームの体裁をかぶってはいますが、その中身は最初から「好きなキャラクターを愛でるゲーム」でもあったのです。

 キャラ付け・物語をたのしむ 

もうひとつはキャラ付けの重要性を指摘しておきましょう。現在のトレーディングカードでは当たり前のようにキャラ付けを行い、裏では物語のようなものを暗示させています。しかし昔からそうだったわけではありません。かつては野球選手などの有名人を扱ってキャラ付けは行われてはいましたが、物語世界まで作るようなことはありませんでした。そんな中、1985年にトレーディングカードのビックリマンが「悪魔VS天使」のシリーズを売り出します。このシリーズは独特の設定を持ち込んで物語性を押し出し、更には先ほど述べたレアリティの操作を加えて大ヒットとなりました。ここからわかるとおり、現在のトレーディングカード形式のものはキャラ付けと物語性がヒットに不可欠なものとなっています。

『アイドルマスター シンデレラガールズ』も「キャラ付けと物語性」をきちんとなぞっています。キャラ付けについては100人以上のアイドルがかぶらない属性をもっている点を指摘できます。では物語性はどうでしょうか。実は『アイドルマスター シンデレラガールズ』内での物語は登場人物の台詞が成長をしていくこと除きあまり語られていません。ではどこにあるのでしょうか。これは物語というよりももっと大きな、アイドルマスターの世界に関係しています。『アイドルマスター』はプレイヤーがアイドルをプロデュースするというゲームでした。『アイドルマスター シンデレラガールズ』でも同じようにアイドルをプロデュースします。つまりどのような世界になっているかは、すでに、原作ゲームで作られていたのです。であるから『アイドルマスター シンデレラガールズ』の世界が語られることはあまりありません。原作ゲームと同じだからです。

 二次創作の楽しさ 

『アイドルマスター』はゲームの魅力もさることながら、二次創作によってブームとなりました。とりわけニコニコ動画を中心にしてブームが起こり、二次創作界隈は大いににぎわったといえるでしょう。

では『アイドルマスター シンデレラガールズ』はどうなのでしょうか。ニコニコ動画ではあまり人気があるとはいえませんが、ピクシブは大いににぎわっていますし、2ちゃんねるのスレッドはとてつもない速度で書き込みが行われています。「ゲームやるより語るほうが面白い」とはよくいったものです。そしてピクシブや2ちゃんねるで語られた話題がいつのまにか公式に悪影響を及ぼし、新しいカードのせりふや設定にうっすらと反映されることがあります。

こういった二次創作の活発さやゲームを語ることへの間口の低さ、あるいは良きにつけ悪しきにつけ二次創作から本編への影響があるというのは何も『アイドルマスター シンデレラガールズ』だけではなく、そもそも『アイドルマスター』から受け継がれてきた性質です。

 終わりに・・・ 

以上見てきたことを整理してみましょう。ソーシャルゲームはビックリマンといったトレーディングカード遊びのような収集の面白さがあります。そして集めたカードを見せたり、ゲーム内のイベントで有料アイテムをがんがん使うことで他人に自慢することができます。このような自慢から生まれた快感はアイテム課金オンラインゲームでも見られる要素でした。そして『シンデレラガールズ』は他人と戦うだけではなく、アイドルを愛で、みんなで語り合い、二次創作も時として行うという『アイドルマスター』時代からの特徴ももっています。

ということはソーシャルゲーム(『シンデレラガールズ』)はよくよくたどってみるといろいろなものの集合体であることがわかるとおもいます。

 

ではソシャゲの大元はなんなのでしょうか?Mob WarsやMafia Warsが原点だと思われます。詳しくは4gamerの記事を参照してください。http://www.4gamer.net/games/085/G008544/20100205058/

読んでみれば、誰でも持っているような機器を介したオンラインを前提とし、ある程度コミュニティが出来上がっているところに、毎日接続させるようなゲームシステムを盛り込んだものがソーシャルゲームの本流だというのがよくわかると思います。

物語をゲーム内で語るか、ゲーム外で語るか

ビデオゲームは物語を取り入れることで発展してきました。しかし「ゲームで遊ぶこと」と「物語を楽しむこと」は必ずしもリンクしているわけではありません。どうしても物語を取り入れることができない形式のゲームがあるのです。例えばカットシーンやムービーパートを不必要に入れると試合の流れがぶつ切りになってしまうスポーツ系のゲームが代表的でしょう。ほかにも、アクションゲームにおいて物語をプレイヤーに知らせるために長い長いテキストを読ませてしまうと、もはやノベルゲームなのかわからなくなってしまいます。どの程度物語表現を取り入れるかはきわめてデリケートな問題をはらんでいます。

この記事では、物語を過度に見せるのに適していない形式のゲームにおいてどのようにしてプレイヤーに物語を見せていくか、について考えます。そして、物語をゲーム内で語るかゲーム外で語るかにつながっていく様子を描写していきます。

 物語を十全に表現するために適さないゲームとは何か?

ビデオゲームのジャンルにはさまざまなものがありますが、物語を表現するのに適しているものと適していないものがあります。適しているものとしてはアドベンチャーゲームが代表例でしょう。もともとテキストですすめていく物語を楽しんでいくことを目的にアドベンチャーゲームは作られています。アドベンチャーゲームと類似点が多いRPGも比較的親和性が高いといえます。ただ、コンピュータRPGは物語を楽しんだり役割を演じたりするよりも戦闘(バトル)に特化している面があり、一概にこうであるとは言い切れません。

適していないものは何でしょうか。冒頭で述べたサッカー野球等スポーツの試合をシミュレートするものが真っ先に思い浮かびます。ほかにもレースゲーム、将棋・チェス等のボードゲームも同じように「現実の模倣例」として浮かび上がってきます。しかし後述しますがストーリーを組み入れたゲームはいくつも存在します。

実際は適しているのか適していないのかわかりにくいものもあります。アクション要素を楽しむように作られていたゲームがわかりやすいと思います。用意されたステージをクリアしていくマリオブラザーズは物語の表現に向いているのか向いていないのかといわれても微妙なところです。向いている面としては、例えば主人公のマリオが山を越え川を越えピーチ姫を探しに行くシチュエーションを表現できるという点が指摘できます。プレイヤーはいろいろな場所を探索する楽しみが得られるわけです。しかし過度なカットシーンや物語をみせるために楽しくもないシチュエーションを用意してしまうと、アクションゲームとしての楽しさを損なってしまいます。つまり、ストーリーをみせることでゲームの質が高まっていく面を持ちながらも、ある閾値を越えてしまうとひとつの作品として破綻してしまうゲームである、といえます。違う言い方をすると、これでもかこれでもかと話を盛り込めないゲームと表せますね。

世の中ほとんどが太字で強調したゲームです。ビデオゲームにストーリーが必要か否か?といった簡単な問題ではありません。必要であるのは当たり前なのだが、さてどの程度必要であるのか?それが重要なのです。

 過剰なストーリーをどのように取り入れるか

ではストーリーを取り入れる具体例をみていきましょう。

『ストリートファイター2』ではリュウ、ケン、ホンダ、ザンギ、ガイル・・・といった個性的なキャラクターを用意し、異種格闘技戦を舞台にしました。それによって無個性な格闘技といったものではなく生き生きとした表現が可能になりました。本来はストーリーを見せにくいタイマンバトルに、豊かな物語性を負荷しているのです。ただ、格闘ゲームはそれ以上のストーリーを盛り込めていません。試合前後の掛け合いとか、各キャラクターの背景だとかが公式サイトで配信されていたりしますが、このままではゲームの根幹に影響がありません。ここでは格闘ゲームに多く見られるような、物理的にゲーム外で物語を補う形式を【外部化】と呼んでおきます。

次は野球ゲームを見ていきましょう。『実況パワフルプロ野球』のサクセスモードがストーリーを取り入れたものとして白眉です。野球の試合というのはそれだけとりだしても物語性の付加には限度がありました。しかし試合を「人生の大きな流れ」に位置づけてみたらどうでしょうか。高校の一試合、練習試合、甲子園、あるいはプロの二軍戦・・・。そうやって一つ一つの試合を大きな物語のいちピースにすることができます。元々パワプロのサクセスモードは恋愛シミュレーションゲームの『ときめきメモリアル』をそのまま引っ張ってきたようなモードでした。『ときメモ』はただお目当ての女性を落とす恋愛ゲームではなかったところに豊かなストーリーを見出せます。つまり「文化祭などの高校生活をシミュレートする」という大きな流れの中に「最終的にデートを行い告白される」ことが盛り込まれていたのです。『ときメモ』以前の美少女ゲームでは大きな流れを意識したものは少なく、そこに大ヒットの要因があるといわれています。ただ、サクセスを取り入れた後にパワプロの試合が大きく変わったわけではありません。以上のように位置づけを変えることで物語っぽくすることを【相対化】と名づけておきましょう。格闘ゲーム・レースゲームでいうストーリーモード、またはゲームの中に別のゲームがある場合、と表現しても良いかもしれません。

ファイナルファンタジーを考えましょう。ファミコン時代からRPGとしては異質なほど演出に力を入れたゲームとして知られていますね。例えば『FF1』はオープニングが始まるのはさいしょの橋を渡ったあとだったり、『FF2』で味方キャラクターがどんどん死んでいったり、『FF6』でオペラを再現したり、と豪勢な演出を行っています。『FF7』にいたっては当時としては最高の品質をもつムービーを次から次へと挿入し、このフォーマットは今でも続いています。で、よく言われるようにFFでは明確にストーリーと戦闘(バトル)の面白さが分離しています。ストーリーが豪奢になっていくものの、戦闘の面白さとストーリーには直接関係がないというわけです。しかしゲーム自体に物語を組み込んであるわけで、これを【内部化】と言いましょう。

 

もうひとつは物語を展開させることそれ自体がゲームの目的になっているものです。むずかしいことを考える必要はないですね。アドベンチャーゲームや、あるいはTESシリーズといったRPGで世界を旅することが楽しいものを想像してもらえればよいでしょう。これを【一体化】と称しておきます。

ただまあ【相対化】と【内部化】は線引きがかなりあいまいではあります。

 

【外部化】の危険

【外部化】、【相対化】、【内部化】、【一体化】の順に物語とゲームが融合しています。もういちど述べますと、とあるゲームを構成する根幹要素があるとして、それを生かすために物語を外部で補うか、一方ゲームの中で捕らえなおしてみることで相対化し物語のひとつとして位置づけるか、根幹要素と平行して物語を進行させて内部化させるか、それとも物語を楽しませることが即ゲームの根幹であるように一体化させるか、といった違いです。

ここからは私の個人的な意見になりますけれども、【外部化】は好きではありません。ちょっとイージーすぎるかなと思うのです。しかし物理的に外部へ移動させるならまだしも、【相対化】に失敗して【外部化】のようになってしまったゲームほどこっけいなものはないので、最初から徹底的に【外部化】するんだったら良いとは思いますけどね。

 

【相対化】に失敗した【外部化】の典型例をひとつ挙げておきましょう。

ひとつは『F.E.A.R.』です。2005年に発売された有名なFPSです。これの難点はストーリーテリングです。ジャパニーズホラーとFPSの融合と騒がれていますが、実際はストーリーなんてものはなく雰囲気を楽しむゲームだったのです。どうにかして話の全体像を浮かび上がらせるためにはマップの各地に落ちているボイスレコーダーをいちいち聞かなくてはなりません。アクションゲームなのにご褒美が何か貰えるわけではない探索をし、わざわざ立ち止まって聞かなければならなかったのです。しかも物語の核心はいつまでたてもぼやかされたままでした。海外製のFPSにはこのような「ストーリー知りたければマップにおちているテキストを読んでね」というものがちらほらあります。確かにストーリー不要だと考えている人は飛ばせばいいし、ストーリー必要だと考えている人は丹念にマップを探査すればよい・・・のでしょう。ですが、それって安易すぎると思うのです。ゲームの中で物語とアクションパートを相対化しようとしているにもかかわらず、実際は外部化しているだけにすぎません。