渡辺 修司、中村 彰憲 『なぜ人はゲームにハマるのか 開発現場から得た「ゲーム性」の本質』(SBクリエイティブ、2014)

著作の意図と方法論

 本書は、ゲーム性という曖昧な言葉の本質を探り、定義付けを行い、人がゲームにハマる理由をゲーム性の正体「ルド」に求めている。ルドにプレイヤーを誘うために併置されているのがナラティブであり、ルドとナラティブに大きな影響を与えるのがアーキテクチャーである。以上の内容を様々な理論を援用しながら論理的に明らかにし、実際のゲームに適用させている。

 これだけ横文字を並べても分かりにくいと思われるが、本書の中で丁寧に説明されているので、読者にとって問題はないだろう。刺激的な概念を多用するのではなく、論理を積み重ねて「ルド」を導いた本である。論理が積み重なっていく本なのだと理解して読んでいけばそれほど苦労しないでスイスイ読めると思う。

内容

 まず、第一章第二章でデジタルゲームには「ゲーム独自の何かがある」ことが示される。比較対象は遊びや競技について書かれた有名な本(カイヨワ『遊びと人間』など)である。他、ゲームを定義づけようとした本をいくつか参照し、また具体例もみながら、既存の枠組みでは「ゲーム性」という言葉を紡ぎ出せないことが明らかになる。

 次に3章から8章まではデジタルゲームを記号的、身体的、視覚的、触覚的に分析を行う。この章は以降で使われる「ルド」の概念を理解するための導入となる章である。
 9章と10章で、人がなにかにのめり込む理由をモチベーションの視点から説明する。モチベーションが最適になるのはどのような場合かをこれまた具体例を出しながら考察している。

 そしてようやく11章で、「(3章~8章の枠組み)+(9章と10章のモチベーション理論)=ルド(俗にいうゲーム性)」であることが導かれる。ルドについて短く説明するのは困難だが、敢えて私なりに短く言うと、「とある世界にプレイヤーが作用できる物体があり、プレイヤーが自分の力で動かすことができると認識できるとする。このとき自分の身の丈にあった適切な難易度を取捨選択しながら最も熱中できる難しさで遊べるように、とある世界側からデザインがなされ、またプレイヤーが自分で難易度を選べるように作られているとき、我々はとある世界を「ゲーム」と呼ぶ。以上の要素を呼び起こすデザインこそがルド(ゲーム性)である」となるだろうか。詳しくは本書を読まれたし。

 12章ではナラティブが扱われる。ルドだけでは人はなかなかゲームをやりたがらないので、ナラティブがプレイヤーの目を惹きつける。要は見た目であったり、声優の起用であったり、プロットの善し悪しであったり、といったものである。プレイヤーがルドにアクセスするために補助輪の役割を果たすのがナラティブであるとも言えるだろう。もちろんナラティブ自体に楽しさはある。

 最後に13章で、ルドとナラティブをとりまく環境を扱う。これをアーキテクチャーと呼ぶ。これも難しいことは考える必要がない。とどのつまり、ハードウェアの制約、開発資金の制約、コントローラーの形状、対象とするユーザー層、そういったものをかんがえると良いだろう。

評価

 ゲーム性の正体について過去の研究、異分野の研究を援用して論理的に導いた本であり、提唱された「ルド」の概念はゲームを分析する際に極めて有益なツールであると言える。また、「ルド」は柔軟性がある概念だ。なぜなら私たちがゲームを遊ぶ際にストーリーと読んでいる要素(=ナラティブ)と補完しあう関係にあり、更にハードウェアへとつながらアーキテクチュアの概念とも無理なく接続できるからである。
 「ルド」の概念はプレイヤーが体験する感覚を反映しているのも特徴である。身体的、感覚的なものはともすれば独りよがりになりがちであるが、そこは過去の研究を援用して誰でも感じるような概念に作り上げている。違う見方をすると、殆どのゲーム、プレイヤーに対して対応できる概念であるため、どんなジャンルでも、海外のゲームでも、「ルド」を使えば分析が可能になるとも言える。この点でも優れた概念だと言える。よって、日本とアメリカのゲームを比べたり、ハードウェア間のゲームを比べたりするよりも更に根源的な地点からビデオゲームの面白さを探求することができる可能性がある。

 ただ、本書は「ルド」の概念を提唱し論証し実例をしめしただけにすぎない、序論中の序論である。これから研究が進むにつれて「ルド」の定義を修正する必要性は出てくるだろう。また、トレードオフの概念と「ルド」の見た目はそっくりなので、人によっては既知に見えて新鮮味を感じないかもしれない。しかし以後の研究を期待させてくれる本に違いはない。

書評 上村雅之 細井浩一 中村彰憲『ファミコンとその時代』 (NTT出版、2013)

著者の方法

 「テレビゲーム」がいかにして生まれ出たのかを明らかにする本である。ここでいう「テレビゲーム」とは、デジタルゲームでもビデオゲームでもなく、日本独自の言葉「テレビゲーム」である。本書によれば「テレビゲーム」が確立したのはファミリーコンピュータ(通称ファミコン)が世に出てしばらしくしてからのことであるという。「テレビゲーム」とは単にゲーム機やソフトウェアだけでなく、半導体などの産業分野に影響を与え、「テレビゲーム産業」とも呼ばれるひとつの産業を作り上げ、文化的には若年層に多大な影響を与えたものとして規定されている。
 『ファミコンとその時代』はビデオゲーム研究における「抜けた穴」を生めるべく作られた本である。明確な方法意識は巻末に収録されている講演会の対談に書かれている。以下のようなものである。ビデオゲームに関する研究は始まったばかりであるが、中でも手薄なのが「ゲームの技術史」である。また、開発者の上村雅之本人にしてどうして売れたのか分からないと言わしめるほどブームになった理由を辿る研究も道半ばである。本書の目的はこの二つをしっかりと記述することにある。
 「なぜうれたのかが分からない」理由は需要者側の研究、つまり買っている側の研究が未発達だからであった。どのように受け入れられていったのかは、個人の体験や映像による記録などにしっかりと残されている。しかしアカデミックな内容にまで引き上げられているものが皆無であった。そこで本書ではアカデミックな書き方で技術史という生産者側の視点と、文化史や社会史という需要者側の視点を併記してあるのである。

内容

 第一部が開発史である。ただし開発史といってもファミコン製作の過程を丹念に追うのではなく、ファミコン以前から話がはじまり、ファミコンまでにいたる流れが詳細に書かれている。なぜだろうか。ファミコンは偶然の産物だったのである。変な言い方をすれば、ファミコンがエポックメイキングだったのは後の時代から見てそうだったのであって、当時は新しいゲーム機のひとつにすぎなかったのだ。また、技術的な困難や前世代のゲーム機とのつながりと断絶を強調するために、ゲームの黎明期から本の内容は始まっていると言える。。
 開発史は主に上村雅之が執筆している。彼は任天堂で長年ハードウェアを製作してきた人物であり、まさにファミコンを作った人その人である。であるからこそ貴重な証言であり、ほぼファミコン史の決定版になっていると言える(ほぼと言ったのは、どうしても内部からだと客観性が薄れるため)。
 第二部はファミコンがどのように売れていったのかを、経済的視点と社会的視点から分析している。経済的視点についてはファミコン以前のアタリ社によるゲーム機と販売戦略との違いが強調される。社会的視点とは、ファミコンを人々がどのように受け入れたのか?を記述している箇所のことである。例えば同時代の玩具との違い、アレルギー反応ともいえるファミコンへの反発、或いはファミコンに入れ込むスコアラー文化の存在などである。重ねて言うが、第二部は需用者側の視点について、文化面も含めて書かれてある。そこにこそ私たちがいまでもファミコンと聞いて思い浮かべる音、空気、ノスタルジーを生み出すもととなるものが存在した。第二部ではファミコンがファミコンであるアイデンティティのようなものが記述されていると言って良いだろう。

評価

 アカデミックかつ詳細な記述はファミコン開発史におけるほぼ決定的な証拠となりうる力作である。いままでも内部からの発信は多々あるものの、インタビューであったり対談だったりと断片的な内容が多かった。ここまで包括的に論じた類書はない。
 日本の事例に絞っているのは限界ともいえるのだが、むしろ日本でなぜファミコンがブームになったのかを明らかにしなければならないので、米国での販売戦略等を紹介するに止めているのは正解だと思われる。今後はアメリカゲーム文化とのつながりを探る必要があろう。
 ファミコン以前と以後を、ファミコンがプラットホームリーダーシップの確立をしたこと、子供達の間で文化的に受け入れられたという文化面を強調することによって、ファミコンの特異性を浮かび上がらせている。と同時に、ファミコン以前からの開発技術史の流れを併記しているため、ファミコンは前世代のゲーム機とつながりがあり、ある意味偶発的にブームになったことがしめされている。以上の記述によって開発者が「何故売れたのか分からない」点について一定の答えが出ている。つまり、世に数多あるゲーム機のひとつとしてファミコンは生み出されたのに、ブームとなっていったのは、プラットホームリーダーシップを偶発的にとった任天堂の戦略があり、偶然にもテレビから離れつつあった子供達にうけいれられたからである。
 本書の限界は「次の時代」にある。つまりファミコンブームが去っていった後、果たしてゲーム業界になにがおこったのかが書かれていない(まあ当たり前なのだが)。また、開発史においてやや論理的に混乱している箇所(アタリショックのあたり)があり、そこをが少し分かりにくい。文化史についても、もう少し詳しい記述が欲しいところである。

書評 さやわか『僕たちのゲーム史』

本書の目的意識

 著者は次のようなビジョンをもってビデオゲームの歴史を見ている。日本は物語性を重視したゲームを長年作り上げていき、一方のアメリカはゲーム内への没入性や競技性を重視したゲームを作り上げてきたという視点である。この視点にたって日本のゲームソフトの歩みを黎明期から現代へと見ていき、海外はさらっとふれる程度に紹介をしている。
 「物語をどのように扱うか?」を軸にして日本のゲーム業界をみていくと、やはりスーパーマリオブラザーズやアドベンチャー・RPGが中心になっていく。もちろん逆に言うと、RPGやスーマリこそ日本を代表するゲームなのであり、物語重視の傾向は日本では顕著なのである。
 著者は過去の文献を丁寧に渉猟し、「当時どのように考えられていたか」を綿密に明らかにしている。なのでスーパーマリオブラザーズが今日いわれるジャンプアクションゲームではなく、アドベンチャーゲームとして売られていた、という驚くべき事実も明らかになっていく。

内容

 最初はスーパーマリオブラザーズを詳細に検討し、後のゲームへと繋がる画期的な要素として物語性に見出している。というのもスーパーマリオブラザーズは画面を自由に動かし進んでいくタイプのゲームであり、山あり谷ありの豊かなロケーションを旅する物語でもあるからである。自由にどこにでもいけるため、そこに一種の奥深い物語が生まれる。後のゲームはその奥深さを追求することになるのである。
 アドベンチャーゲーム、シミュレーションゲーム、どれもが物語を巧みに扱ってきたと著者は見ている。そして、無縁とさえ思える格闘ゲームでもキャラクターという物語を取り込んだストリートファイターが大ヒットしたことを踏まえ、物語とのつきあい方が日本のゲーム業界を貫く一本槍であったと述べている。
 以上のような物語とのつきあいが最高潮に達するのが1997年の『ファイナルファンタジー7』や『YU-NO』である。RPGは『イース』以降に物語を重視する方向を推し進め、また『YU-NO』は物語をそのままゲームとして提示しようとするノベルベームに分類される種類のゲームである。どちらも97年に発売され、97年以後はゲーム業界の売り上げが低下していくという点で著者によるとかなり意味深いことでなのであった。
 と同時に97年以降、同人ゲーム、ポケモンといったものが売れていく。同人ゲームはノベルゲームが中心となって活気を呈し、00年代には東方シリーズがシューティングゲームにキャラクター性を取り入れ爆発的大ヒットをとばす。また、とりわけポケモンはゲームに「ゲーム外コミュニケーション」を取り入れた画期的なゲームであったとされる。なぜなら次の時代以降もゲーム外のコミュニケーションを重視させようとする傾向が強くなっていったからである。その代表例が『高機動幻想 ガンパレード・マーチ』であった。このゲームは謎をちりばめていってゲームの中で多くを語らず、ユーザーコミュニティがゲーム世界の姿を語り合っていくというものであった。ユーザー同士の交流を促進しようとした点でゲーム外コミュニケーションの代表例と言えるだろう。
 そして時代は下り、現代ともなると、ゲーム内外のコミュニケーションに差がなくなってくる。物語中心のゲームは斜陽となり、技術力の向上も相まって、オンラインゲームが流行するのだ。例えば『モンスターハンター』はオンラインゲームでもありながらゲーム外コミュニケーションゲームでもありうる代表例である。ソフトとハードをもちより他人と遊ぶオンライン要素と、高校生なんかがコミュニケーションをとる手段として一緒に遊んでいる姿を思い浮かべてみれば明かであろう

 ついでにいいえば00年代半ば頃からアメリカのゲームが日本へ頻繁に紹介、ローカライズされ一定の市民権を得ている現状を、アメリカのゲーム事情とからめてちょっと紹介してある。

評価

 「物語の扱い方」を軸にゲームソフトの歴史を俯瞰した結果、ブレのない記述ができている。いままで明確な方法を意識したゲームソフトの通史が少なかったため、今後は『僕たちのゲーム史』は必読文献となりうるに違いない。また、文献を引用する方法もきちんとしており、ビデオゲームの批評のみならず研究をする際にも十分に耐えうる本である。当時の資料を発掘していく中でスーパーマリオブラザーズのアドベンチャー性など、新たな事実を発掘している点は誰もが驚くだろう。同人ゲームやノベルゲームへと目を配っている点は東浩紀などの議論を踏まえており、先行文献からのつながりもしっかりと得ている。
 しかし問題点はいくつか指摘できよう。まず海外ゲームの扱い方が簡素でしかありえず、「僕たち〈日本人の経験した〉ゲーム史」になっている点が指摘できる。著者の見方によると物語をどのように扱うかが海外と日本では異なるとのことだが、00年代半ばからは物語を重視する海外ゲームがどんどん作られ日本でも発売されている。このような状態を上手く説明できてないように思われる。
 次にサッカーゲームやレースゲームなどの純粋な競技に近いゲームソフトの歴史が抜け落ちている点も指摘できる。海外ゲーム事情の端折り方も含め、著者の取捨選択によって紡ぎ出された通史は魅力的ではあるが、わざととはいえ見落とされているのもたくさんあると言えるだろう。むしろ著者がツイッターで述べていたように、『僕たちのゲーム史』で書ききれなかった要素を補完していく研究が今後望まれる。

書評  多根清史『教養としてのゲーム史』(ちくま新書、2011)

本書の概要

 『教養としてのゲーム史』は、ビデオデーム愛好者の内々で語られ共有されてきたオタク語りともいえる薀蓄・レビュー・考察をわかりやすい形でまとめ(p10とp212参照)、著者独自の見解も入れながら、主に80年代と90年代初頭のビデオゲームソフトウェアを解説した本である。その際の視点は、ハードウェアの制約がソフトウェアに与える影響、ソフトウェアが次の時代に与える影響(著者は「進化」と呼ぶ)に重点を置いている。

 ところでオタク語り言説を分かりやすい形で整えた本に、同様な名前の大塚英志,ササキバラゴウ『教養としての〈まんが・アニメ〉』(講談社現代新書)がある。そちらでは端的に言えば、「後世に残されるべきまんがとアニメを紹介する」のが役割であるとまえがきで宣言されている。『教養としてのゲーム史』もまた同じ目的意識をもった本と言えるだろう。ただし、教養の意味が〈まんが・アニメ〉の場合は本の内容と結びついているのに対し、『教養としてのゲーム史』は「ゲームを語るなら知っておきたいよね」というスタンスで意味づけされている点に違いがある。

内容の簡単な紹介

 著者が大枠で使った視点が「固定画面」「スクロール画面」「ロールプレイングゲーム」「シミュレーションゲーム」である。
例えば「固定画面」ではファミコン以前の『ポン』から『ブレイクアウト』『スペースインベーダー』『ギャラクアイアン』に続く固定スクロールゲームを具体的に見て、ひとつのゲームが次のゲームにどのような影響を与えたのかをハードウェアの性能向上(=ハードウェアの進化)、とソフトウェアの改良(ソフトウェアの進化)の両輪による螺旋状の進化になぞらえている。
 「スクロール画面」についても『スクランブル』『ゼビウス』『スーパーマリオブラザーズ』が進化の過程に描かれ、「ロールプレイングゲーム」も『ウィザードリィ』『ドルアーガの塔』『ハイドライド』『ドラゴンクエスト』と、有名なゲームに連なってゆく様子が書かれている。
「シミュレーションゲーム」は論理展開が少し逆転している。そこで現実を写し取ろうとする欲望の中でハードウェアとの制約と格闘しながらソフトウェアがどんどん現実へと近づく模様(進化)が描写されるのだ。

評価

全体的に進化の過程を描き出そうとする点は成功しており、著者独自の見解(「見立て」など)も面白い。と同時に紙面の都合もあるのだろうが、中途半端な地点で終わっている箇所が多い。果たして『スーパーマリオブラザーズ』以降のスクロール、箱庭ゲームがどうなったのかが書かれていないのだ。他の要素についても言えて、著者のやりかたは80年代のビデオゲームを分類するには非常に最適なのだが、90年代半ばに入って3D化がすすんだあたりで限界が来てしまう。そこで話が一気に飛んでしまい、『ときメモ』から『ラブプラス』に話が飛躍し、終わってしまうのだ。また、海外ゲームについての考察も不十分である。進化という意味ではサッカーやレースゲームも適当な例にあげられようが、本書では全くふれられていない。

3Dゲームの語りにくさは決して著者の問題にのみ帰着されるわけではない。2Dとは異なる枠組み、そしてハードウェア論争によってゲームソフトを語る楽しさは一歩引いてしまった感が90年代~00年代にはあるのだ。その語りにくさを如実に示している本と言えるだろう。