ビデオゲームにおける作家性と批評

 このコラムはビデオゲームにおける作家性を考え、批評がどのように広がっていくかをスケッチするのが目的である。6000文字あります。長いです。
 まず、意味があやふやになっては困るので作家性を定義する。「個人の行為の結果、ありきたりではなく独特のものが生み出されるとき、作家性がある」としておこう。すなわち読んだだけであの人とわかるような文章であれば作家性があると言える。一方、新聞のようにどこにでもあるような言い回し、文言、構成、内容でつくられた文章には作家性が見あたらないと言うことができる。

ビデオゲームにおける二重の「作家性」

 ふだんあまり意識しないものではあるが、実のところビデオゲームには二重に作家性が存在している。ひとつは作り手側の作家性である。どのようにプログラムを組むか、音楽を組み入れるか、ゲームバランスを調整するか、物語をつくるか、といったものを想像してほしい。例えば堀井雄二が関わった『ドラゴンクエスト』のようなゲームでは他のゲームには見られない言い回しがあったり、主人公が一切喋らないなどのルールが設けられている。そこに私たちは堀井雄二の作家性を見出すわけだ。
 もうひとつの作家性とは、遊び手側の作家性である。ここが小説や映画と大きく異なっている。というのも、ビデオゲームでは受け手が作品そのものに参加してゲームを作り上げてもいるからである。小説において自分が作品世界の中に入り込み、文章を変えていくことはふつうありえない。しかしビデオゲームではプレイヤーがゲームの中の物語をある程度変化させてしまう。こちらの作家性については後に詳しく見る。

作り手側の作家性は本当にあるのか?

 作り手側の作家性は自明なことのように思うかもしれないが、よくよく考えてみるとあやふやだったりする。確かに昔のゲームであれば一人や複数人でプログラムや音楽、デバッグまでやっていたので、作家性は強く出ていたに違いない。一方で、昨今の百人規模で作るゲームにおいて明確な作家性が見えにくくなってきているのも事実なのだ。

 小説が個人の創作の結果生まれ出されたものであるから作家性があるというのは容易に理解できるにしても、ウィキペディアの記事に作家性があるとは誰も言わないはずである。もしウィキペディアの記事に他の百科辞典や概説書に見られない表現があるとすれば、それは「ウィキペディアというシステムによってユニークな書き方が生まれた」と説明するべきである。または「ウィキペディアを編集する人の集団がもつ一種の特性」であるとか、「日本語版ウィキペディアを編集するのは日本人だから、日本人ならではの表現になっている」と解説する場合もあるだろう。つまり個人が消えていくに従って、アーキテクチャという制度や社会を形作る枠組みや、人がたくさんより固まってできた集団や民族という概念を用いたほうが据わりが良いのである。個人の分析に使うべき方法をそのまま集団や社会にむけて使ってしまうのは危険だ。
 であるから、少人数で作ったビデオゲームと大人数で作ったビデオゲームをまったく同じように語ろうとするとどうしても無理が生じてしまうはずなのだ。個人に帰着できる作家性があるものと、なかなか見えにくかったり無くなってしまったものを同等に批評するのは難しい。

 ついでにいれば、大人数がかかわると角が取れた製品になりがちで、語るべき箇所がどんどん取れていってしまう。ありきたりのゲームを語るのは難しいが、クソゲーほど語りやすい対象はない。そして続編が発売されても前作のマイナーチェンジであったりすることも多く、ここに到ってビデオゲームは、語るべき作家性をもった作品というよりも大量生産される工業製品のような存在に生まれ変わっている。工業製品の差異を比較したり批評しようとすると、どうしても「価格コム」や「アマゾン」の口コミレビューに溢れている値段やコストパフォーマンス中心の、買って得した損したでしか切り口のないやり方にならざるをえない。しかし私はそのような方法は間違っていると思うのだ。ではどのような手法が望ましいか、と言われてもなかなか答えがでていないのだが、強いて言えば遊び手側の作家性を生かしたゲーム実況が一つの解決策だと考えている(詳しくは後回し)。

インディーズ・同人ほど語りやすい

 というわけで少人数でクリエイターの個性が出やすいインディーズゲーム、同人ゲームほど語りやすいのである。なぜならば、批評は作家性をもとにするとやりやすく、また多人数が関わる前のデコボコした部分をもっていると尖った部分を語りやすいからである。ビデオゲームに関する優れた論考が80年代のゲームに多く、また同人ゲームはディープに語られているのも不思議ではない。
 このように考えていくとみえてくるのがインディーズゲームである。いまやインディーズゲームは数年前には考えられないほど盛況だ。やはり少人数で作っているので、個性派ぞろいのものがたくさんある。色々と語りたい人間ほどディープな世界へむかっていくこともあいまって、ゲームを語りたいと考えている人がいつのまにかインディーズゲームだけにしか集まらなくなってしまう未来がいつか来るかもしれない。そんな未来は想像したくもないが。

角が取れた大作をどのように批評するか?

 問題は角が取れた大作ビデオゲームである。作り手側の作家性が見えにくく、語りやすい尖った部分もみえないものをどう批評するべきなのだろうか。ここで二つの方法を提示しよう。ひとつは作家性に依拠することなく批評する方法を持ち込んでしまう方法で、もうひとつはゲームの実況プレイである。

 作り手側の作家性に依拠することなく批評する方法とはなにも難しいものではない。たとえば、ビデオゲームのなかでとあるモチーフがいかにして使われているかを追ってみるのがたやすい。具体的には銃である。そのゲームソフトにおいて銃がどのように使われているのかを詳細に見て、銃といかなるつきあい方をしているのか書いてしまうのである。そして他のソフトウェアを比べてしまおう。別に銃でなくて飲み物、天候、女性、思想、なんでもよい。対象のソフトウェアに明確な「制作者の意図」がなくとも、何かしらの批評は書けてしまうはずだ。ただしこのような方法はどっちかというと映画批評で使われている。ほかにもたくさんの種類がある映画批評をそのままビデオゲームにもちこんでしまうと確かに何かしらの文章は書けるだろう。しかしこのやり方ではゲームとはいかなるものか?について思索し、通過した成果が見られない。
 ではゲームシステムについて詳細に考え、構造を分析し、誰が作ったのかをまったく考えないようにしてしまう方法はどうだろうか。具体例としては、対戦ゲームの武器やキャラクターごとのバランス、必殺技やマップについての考察とを書いてしまうわけだ。ビデオゲームのもつ独特のバランス感覚を描こうとする点で、さっきの批評よりも「出来合い」ではなくなっている。おそらく、いまビデオゲームを批評しようとするとガッチリとした理論みたいなものがないため、このあたりが限度になってくるのだと思われる。が、更にビデオゲームの特性を生かした手法が存在する。それがゲームの実況プレイなのである。

ゲーム実況プレイはひとつの批評である

 ビデオゲームの実況がいかにして批評となり得るか、については金田淳子の考察「ゲーム実況、そして刺身 ゲーム実況プレイ動画についての覚書き」(『ユリイカ 特集*RPGの冒険』2009年 4月号)によって明らかにされている。以下、すこしだけ紹介しよう。
 金田によればビデオゲームは

「コントローラーを握る者(プレイヤー)だけがゲームを経験しているのではなく、それを後ろで見ている家族や友人がいる場合、そのような者も、部分的にゲームを経験している」(p186)

とされる。そして、

ゲーム実況における視聴者という位置は、ゲーム経験という意味では、実況者(プレイヤー)を隣で見ている者の位置と、それほど変わりはしない…『ゲーム実況を見る』経験は、『(実況者と一緒に)ゲームをする』経験に近似している」(p187)

と論じられ、次にゲーム実況の面白さについての核心に迫っていく。

文学理論の世界ではテクストはそれ自体では意味をなさず、読み手が解読してはじめて意味が生まれるとする考えはもはや常識の域であろうが、ゲームにおいてもまた同じことが言える」「文字列の解読だけが物語ではなく、プレイヤーの膨大な回り道や試行錯誤、失敗、リロード、親指の腹が痛むほどの○ボタン連打、さらにリロード、その合間に刺身・・・・・・こういった全体はゲームの物語生成である

つまり

ゲーム実況の面白さ…とりわけ、自分がクリア済みのゲームの実況を見ることの…面白さ…は『同じゲームだけど、別の物語』だからである」(p188)

最後に批評との関係性が語られる。

批評の役割のひとつが、そのテクストについての新たな読解の発見であるならば」(p189)、『同じゲームだけど、別の物語』を生み出すゲーム実況は批評そのものに他ならないのだ。

 以上で金田の論考の紹介を終えるが、ここには遊びとビデオゲームに関する重大な接点が隠れている。次項でそれを説明し、この短い記事を終えようと思う。

手段と目的が渾然一体となった「遊び」の楽しさを伝える実況

 「遊び」は大人の社会生活において望ましくないものとみなされている。なにも生み出さないばかりだけでなく子供じみているため、大人はやるべきものではないとさえ言われている。なぜなのだろうか。おそらく「遊び」は手段と目的が渾然一体となっているからだ。

 人は遊んで楽しいと感じるとき、「遊び」を手段にして楽しさを追求しているわけではない。逆に「遊び」を目的としてただやっているわけではない。実際のところ、遊ぶことと快感を得ることはほぼ同時に立ち上がっているのである。このように同時に「遊び」と快感が渾然一体となったとき、人は夢中になれる。没頭できる。我を忘れてわき目もふらずに遊んでいるとき、何が目的で何が手段なのかわからない、いや、遊ぶことを手段にして遊ぶことに没頭している。この様子を傍目から見ると一心不乱に遊んでいる様子は奇妙なものに映るに違いない。なにか精神に異常を来しているのではないか、或いは中毒症状のあるクスリを飲んでいるのかとさえ疑ってしまうかもしれない。病気や中毒者と外観からは区別がつかないのだ。
 また、手段と目的をごちゃまぜにしてしまう態度は、現代の社会生活においてかなり嫌われている。例えば近代人・・・ともいうべき人間像は、何かしらの目的をもって手段を適切に利用する行動する姿を理想としている。グーグルで「手段 目的 混同」とでも検索してみれば、なにやらコンサルタントやMBAやらのビジネス人のありがたい自己啓発のような意識高い発言をいくらでも拾うことができる。そこでは手段と目的の混同や転倒は避けるべきだと述べられている。確かに効率よく仕事を行ったり、現代社会で賃金を得て暮らしていくには手段と目的を的確に分けるのは必要なのである。自律した意思をもって自己の運命を切り開いていく、パワフルでバイタリティーに満ちた人間こそ望ましいとされている。だから、なんでもない遊びに熱中して非生産的な活動を行う人間は居場所がない。ただひとつ遊びが許されるのは、リクリエーションとしての遊びだけだ。つまり、仕事を行うためのリフレッシュをするための手段としての「遊び」なら手段と目的を混同しないので、やってもいいことになる。
 手段と目的が一体化してこそ意味のある「遊び」とほぼ同じ位置にある人間の活動は食事である。食事をとることによって明日生きるためのエネルギーを得ることはできるだろうし、食べなかったら食べなかったでお腹がすいて不快になってしまうので、一見すると手段の意味合いが強いように思える。しかしながら、食事をとるときは単なる栄養補給だけが目的なのではない。食べること自体が楽しいはずである。「遊び」と同じように、手段と目的をごちゃ混ぜにしてただ目の前にある食事を口に運ぶことこそ、食べる行為そのものである。忙しい現代人のための食事と銘打った加工食品の、単調で味わいもなにもない味を想像してもらいたい。食事に熱中させないように作られた、ああいう時間を節約するための食品に食べる楽しみなどほとんどありやしない。

 ビデオゲームにおいての批評というと、どうしてもゲームをやり終わった後にクールダウンをして、時間をさかのぼるように言葉によってゲーム体験を紡ぎなおさなければならなかった。遊んでいるときの熱中している様子や試行錯誤の過程はほとんど無視されてきたと言っても良い。しかし、ゲームの実況プレイはそれを変えた。遊んでいるときの興奮や錯誤といった、文字に表しにくいものをそのまま伝えてくれる。ビデオゲームは基本、「遊び」である。「遊び」は手段も目的も区別がつかない遊びの瞬間にこそ本質がある。その瞬間を的確に他者へ伝えるゲーム実況の即興性にはゲーム批評の新たな地平が開けていると言える
 『孤独のグルメ』という漫画をご存じだろうか。もともとは90年代中頃に連載されていた漫画で当時はそれほど人気があるわけでもなかったのだが、インターネットや口コミによって文庫版がロングセラーになった。サラリーマンが一人で飲食店に入っていき、ただひたすら食べて、様子を実況するだけの漫画である。これと有名なグルメ漫画の『美味しんぼ』は対照的だ。『美味しんぼ』は食に関する薀蓄を語り、好き嫌いを披露する。
 そしていま、食べログにおいては『孤独のグルメ』のような「実況」と『美味しんぼ』のような「薀蓄」の勢力が入り乱れているらしい。食べる瞬間の魅力を伝えるのか、それとも食にまつわる話を伝えるのか。どちらが正解というわけではない。どちらもあって良いはずだ。ビデオゲームにおいても、同じことが言えるだろう。

 

 

注)批評とはいかなるもなのなのかは永遠に解決しない問題ではあるが、今回の記事では「新たな解釈を生むもの」として扱った。きちんとしたビデオゲーム史をつくることは目的としていない。
また、ゲーム実況プレイによってすべての批評が駆逐されるわけではなく、いままで通りの批評とは両立するものだと思っているし、なによりもっと洗練されるべきだと考えている。
最後に『PLANETS VOL.08』の食べログ特集における『孤独のグルメ』と『美味しんぼ』の対比、『PLANETS VOL.07』(どちらも第二次惑星委員会発行)のビデオゲーム特集を再読してわき上がったイマジネーションをもとにこの記事を書き、いくつかの考えや用語を引用していることを付記しておく。

「不当に無視されたゲーム文化」を「内部から告発」できたのか?

古い雑誌を読んでいたらビデオゲームに関するコラムを見つけた。雑誌の後ろのほうに位置された投稿欄というべきか、エッセイと言うべきか、そこに1985年人が見たファミリーコンピューター像があった。

 任天堂のファミリーコンピューターが四百万台売れ、カートリッジ式のゲームが一本当たりで、最高百万本も出ている。一台のゲーム機に四人が触れ、一人五時間ゲームをプレイしたろして、単純計算しよう。のべ二千万時間がゲームのために費やされていることになる。チップに書き込まれたプログラムの単純ループ、またはサブルーチンへのコールが、ファミリーコンピューター内部でさらに一秒間に何メガヘルツという猛烈なスピードで繰り返される。
 たしかに画面に映る絵柄は塗り絵や簡単な書き割りアニメーションかもしれない。内部機構を絶対に人目にさらさないディズニーランドのようなエンタテイメントからいえば、ファミリーコンピューター・ゲームの演出は、まだまだ幼稚なものに見えるだろう。
 しかし、小学校の教室で、七割以上の子供が、ファミコンで遊んで充血した眼をパチパチさせながら、寝不足気味の授業を受けている現実は、この塗り絵機会に少年達を熱中させる何かがあることをはっきり物語っている。僕はそれを”不気味である”とか”ハイテク時代の機会で遊ぶ少年”とか”自閉症”であるとかの、大人の目から見たアタリマエの話にすりかえたくはない。
 ファミリーコンピューターの価格は約一万円、ディスカウントショップに行けば一万円。安価なメカの普及について、そして子供達がそれを夢中にプレイする光景について、誰も、何も、まともに発言しようとはしないのは何故だ。発言を避けるのはらまだいい、文化人や評論家の多くはその図を見ようとしない。不当に無視されたゲーム文化のなかで、10代未満の原体験が形成されていくのに、僕ははがゆさを感じながらも、どうにもできない。次の世代からの、クリアランスな発言―メカニズム内部からの告発にも似た、救世主の声を、僕は待っている。
野々村文宏「メカニズム内部からの告発」 『ユリイカ 増頁特集*未来派 モダニズムの総決算』青土社 1985年 12月号 p278

ところでこの短い文章を書いた野々村文宏さんは当時新人類と呼ばれていた若者だった。80年代初頭の言論界ではなにが議論されていたのかはあまり知らないのだが、今風に言うと宇野常寛や濱野智史みたいな存在のようだ(年齢からすると荻上チキ、古市憲寿、後藤和智なんかが近いかもしれない。ゲームなら井上明人か)。ちょっと前なら東浩紀か。要するに、若い世代からの生の声を広く一般にとどけたり、流行する現象をもとに世評や日本について深く語ろうとする人たちである。

私たちは野々村さんが求めていた声をだせただろうか。幼少期かビデオゲームと共に育ってきた人間としての声を。そして、ビデオゲームを”まともに”語れているだろうか。