物語をゲーム内で語るか、ゲーム外で語るか

ビデオゲームは物語を取り入れることで発展してきました。しかし「ゲームで遊ぶこと」と「物語を楽しむこと」は必ずしもリンクしているわけではありません。どうしても物語を取り入れることができない形式のゲームがあるのです。例えばカットシーンやムービーパートを不必要に入れると試合の流れがぶつ切りになってしまうスポーツ系のゲームが代表的でしょう。ほかにも、アクションゲームにおいて物語をプレイヤーに知らせるために長い長いテキストを読ませてしまうと、もはやノベルゲームなのかわからなくなってしまいます。どの程度物語表現を取り入れるかはきわめてデリケートな問題をはらんでいます。

この記事では、物語を過度に見せるのに適していない形式のゲームにおいてどのようにしてプレイヤーに物語を見せていくか、について考えます。そして、物語をゲーム内で語るかゲーム外で語るかにつながっていく様子を描写していきます。

 物語を十全に表現するために適さないゲームとは何か?

ビデオゲームのジャンルにはさまざまなものがありますが、物語を表現するのに適しているものと適していないものがあります。適しているものとしてはアドベンチャーゲームが代表例でしょう。もともとテキストですすめていく物語を楽しんでいくことを目的にアドベンチャーゲームは作られています。アドベンチャーゲームと類似点が多いRPGも比較的親和性が高いといえます。ただ、コンピュータRPGは物語を楽しんだり役割を演じたりするよりも戦闘(バトル)に特化している面があり、一概にこうであるとは言い切れません。

適していないものは何でしょうか。冒頭で述べたサッカー野球等スポーツの試合をシミュレートするものが真っ先に思い浮かびます。ほかにもレースゲーム、将棋・チェス等のボードゲームも同じように「現実の模倣例」として浮かび上がってきます。しかし後述しますがストーリーを組み入れたゲームはいくつも存在します。

実際は適しているのか適していないのかわかりにくいものもあります。アクション要素を楽しむように作られていたゲームがわかりやすいと思います。用意されたステージをクリアしていくマリオブラザーズは物語の表現に向いているのか向いていないのかといわれても微妙なところです。向いている面としては、例えば主人公のマリオが山を越え川を越えピーチ姫を探しに行くシチュエーションを表現できるという点が指摘できます。プレイヤーはいろいろな場所を探索する楽しみが得られるわけです。しかし過度なカットシーンや物語をみせるために楽しくもないシチュエーションを用意してしまうと、アクションゲームとしての楽しさを損なってしまいます。つまり、ストーリーをみせることでゲームの質が高まっていく面を持ちながらも、ある閾値を越えてしまうとひとつの作品として破綻してしまうゲームである、といえます。違う言い方をすると、これでもかこれでもかと話を盛り込めないゲームと表せますね。

世の中ほとんどが太字で強調したゲームです。ビデオゲームにストーリーが必要か否か?といった簡単な問題ではありません。必要であるのは当たり前なのだが、さてどの程度必要であるのか?それが重要なのです。

 過剰なストーリーをどのように取り入れるか

ではストーリーを取り入れる具体例をみていきましょう。

『ストリートファイター2』ではリュウ、ケン、ホンダ、ザンギ、ガイル・・・といった個性的なキャラクターを用意し、異種格闘技戦を舞台にしました。それによって無個性な格闘技といったものではなく生き生きとした表現が可能になりました。本来はストーリーを見せにくいタイマンバトルに、豊かな物語性を負荷しているのです。ただ、格闘ゲームはそれ以上のストーリーを盛り込めていません。試合前後の掛け合いとか、各キャラクターの背景だとかが公式サイトで配信されていたりしますが、このままではゲームの根幹に影響がありません。ここでは格闘ゲームに多く見られるような、物理的にゲーム外で物語を補う形式を【外部化】と呼んでおきます。

次は野球ゲームを見ていきましょう。『実況パワフルプロ野球』のサクセスモードがストーリーを取り入れたものとして白眉です。野球の試合というのはそれだけとりだしても物語性の付加には限度がありました。しかし試合を「人生の大きな流れ」に位置づけてみたらどうでしょうか。高校の一試合、練習試合、甲子園、あるいはプロの二軍戦・・・。そうやって一つ一つの試合を大きな物語のいちピースにすることができます。元々パワプロのサクセスモードは恋愛シミュレーションゲームの『ときめきメモリアル』をそのまま引っ張ってきたようなモードでした。『ときメモ』はただお目当ての女性を落とす恋愛ゲームではなかったところに豊かなストーリーを見出せます。つまり「文化祭などの高校生活をシミュレートする」という大きな流れの中に「最終的にデートを行い告白される」ことが盛り込まれていたのです。『ときメモ』以前の美少女ゲームでは大きな流れを意識したものは少なく、そこに大ヒットの要因があるといわれています。ただ、サクセスを取り入れた後にパワプロの試合が大きく変わったわけではありません。以上のように位置づけを変えることで物語っぽくすることを【相対化】と名づけておきましょう。格闘ゲーム・レースゲームでいうストーリーモード、またはゲームの中に別のゲームがある場合、と表現しても良いかもしれません。

ファイナルファンタジーを考えましょう。ファミコン時代からRPGとしては異質なほど演出に力を入れたゲームとして知られていますね。例えば『FF1』はオープニングが始まるのはさいしょの橋を渡ったあとだったり、『FF2』で味方キャラクターがどんどん死んでいったり、『FF6』でオペラを再現したり、と豪勢な演出を行っています。『FF7』にいたっては当時としては最高の品質をもつムービーを次から次へと挿入し、このフォーマットは今でも続いています。で、よく言われるようにFFでは明確にストーリーと戦闘(バトル)の面白さが分離しています。ストーリーが豪奢になっていくものの、戦闘の面白さとストーリーには直接関係がないというわけです。しかしゲーム自体に物語を組み込んであるわけで、これを【内部化】と言いましょう。

 

もうひとつは物語を展開させることそれ自体がゲームの目的になっているものです。むずかしいことを考える必要はないですね。アドベンチャーゲームや、あるいはTESシリーズといったRPGで世界を旅することが楽しいものを想像してもらえればよいでしょう。これを【一体化】と称しておきます。

ただまあ【相対化】と【内部化】は線引きがかなりあいまいではあります。

 

【外部化】の危険

【外部化】、【相対化】、【内部化】、【一体化】の順に物語とゲームが融合しています。もういちど述べますと、とあるゲームを構成する根幹要素があるとして、それを生かすために物語を外部で補うか、一方ゲームの中で捕らえなおしてみることで相対化し物語のひとつとして位置づけるか、根幹要素と平行して物語を進行させて内部化させるか、それとも物語を楽しませることが即ゲームの根幹であるように一体化させるか、といった違いです。

ここからは私の個人的な意見になりますけれども、【外部化】は好きではありません。ちょっとイージーすぎるかなと思うのです。しかし物理的に外部へ移動させるならまだしも、【相対化】に失敗して【外部化】のようになってしまったゲームほどこっけいなものはないので、最初から徹底的に【外部化】するんだったら良いとは思いますけどね。

 

【相対化】に失敗した【外部化】の典型例をひとつ挙げておきましょう。

ひとつは『F.E.A.R.』です。2005年に発売された有名なFPSです。これの難点はストーリーテリングです。ジャパニーズホラーとFPSの融合と騒がれていますが、実際はストーリーなんてものはなく雰囲気を楽しむゲームだったのです。どうにかして話の全体像を浮かび上がらせるためにはマップの各地に落ちているボイスレコーダーをいちいち聞かなくてはなりません。アクションゲームなのにご褒美が何か貰えるわけではない探索をし、わざわざ立ち止まって聞かなければならなかったのです。しかも物語の核心はいつまでたてもぼやかされたままでした。海外製のFPSにはこのような「ストーリー知りたければマップにおちているテキストを読んでね」というものがちらほらあります。確かにストーリー不要だと考えている人は飛ばせばいいし、ストーリー必要だと考えている人は丹念にマップを探査すればよい・・・のでしょう。ですが、それって安易すぎると思うのです。ゲームの中で物語とアクションパートを相対化しようとしているにもかかわらず、実際は外部化しているだけにすぎません。

「映画的」なゲームについてのメモ(論考ではない)

「映画的なゲーム」という表現は20年以上まえから使われている表現なのですが、定義が与えられていないまま漠然と使われています。同じような言葉に「ゲーム性」や「自由度」があります。ここで単純に言葉の使用を批判してもよいのですが、私はむしろそのような言葉が使われているのななぜだろうかと考えたほうが良いと思っています。おそらくビデオゲームを考える上で重要な何かが潜んでいるのです。

ゲームを語る上で使われる言葉「映画的」にはいくつかの意味がまぎれこんでいます。

1.映画で使われている表現方法を精査し、ゲームに移植してみたかどうかをみる立場

たとえばコンティニュイティ編集を利用しているか、モンタージュを意識しているか、といったもの。20世紀はじめごろに確立し、こんにちでも使われている映画の手法をなぞっているかというわけです。

2.スポーツのように勝敗を決める側面だけでなく、豊かな叙情性などの物語をゲームに導入したかどうかをみる立場

小説的と言い換えても良いでしょう。わざわざ映画的と言っている理由は、ゲームと映画はどちらも映像を使った表現方式だからだと思います。あとは社会的に程度が低いビデオゲームが、割と高い映画への対抗意識を燃やしている可能性もあるでしょう。

3.自分でキャラクターを動かせない場面があるかどうかをみている立場

「2 」と若干違います。3は単に操作できないカットシーンが紛れ込んでいるかどうか、といいかえても良いと思います。2の場合はたとえばリュウ、ガイル、ザンギエフ等の個性的な面子がいる『ストリートファイター2』なら物語性の導入を意識しているといえますが、無個性な空手家、軍人、レスラー等がでてくる『ストリートファイター2(もちろん架空のゲームです)』なら物語を意識していないといえます。ややこしくなるのでここではキャラクターと物語の関係はみません。

4.ゲーム作成の方法が映画製作とにているかどうか

予算を引っ張ってくるプロデューサーがいて、その下に製作のトップであるディレクター(=監督)がいて、そこからグラフィック・ミュージック・バトルプログラム・シナリオ・等々のディレクターがいて・・・といったような意味合いです。ただ、現代の大規模なゲームはほぼこのような方式になっているみたいですね。


でまあ、ちょっと意地悪な言い方をしますけれど、ネットとか雑誌でほとんどの人が映画的~と言うときは「2」か「3」、とくに「3」のカットシーンの連続を指しているようなことが多いと感じます。あんまり意味もなく使っているのかもしれません。

『メタルギアソリッド』で有名な小島秀夫は「1」を中心に「2」を意識しているのかな、と思います。ファイナルファンタジーシリーズは明らかに「1」よりも「2」重視です。

最近いろいろなゲームで目にするQTE(クイックタイムイベント)は映画のような映像を見せながら、なんとか操作をさせようとする方法です。これは「1」と「2」を重視すると批判されやすい「3」をどうにかして組み入れようとした結果だと思います。先月発売された『バイオハザード6』はずいぶん1を意識しています。『バイオ4』はいまいちでしたが『バイオ5』から意識的にQTEの可能性を模索しているといっていいかもしれません。

 

あと注意してほしいことなんですが、この記事はファミ通バックナンバーやネット掲示板の過去ログすべてを見てから意味の違いを分けているのではありません。あくまでも印象論です。