書評  多根清史『教養としてのゲーム史』(ちくま新書、2011)

本書の概要

 『教養としてのゲーム史』は、ビデオデーム愛好者の内々で語られ共有されてきたオタク語りともいえる薀蓄・レビュー・考察をわかりやすい形でまとめ(p10とp212参照)、著者独自の見解も入れながら、主に80年代と90年代初頭のビデオゲームソフトウェアを解説した本である。その際の視点は、ハードウェアの制約がソフトウェアに与える影響、ソフトウェアが次の時代に与える影響(著者は「進化」と呼ぶ)に重点を置いている。

 ところでオタク語り言説を分かりやすい形で整えた本に、同様な名前の大塚英志,ササキバラゴウ『教養としての〈まんが・アニメ〉』(講談社現代新書)がある。そちらでは端的に言えば、「後世に残されるべきまんがとアニメを紹介する」のが役割であるとまえがきで宣言されている。『教養としてのゲーム史』もまた同じ目的意識をもった本と言えるだろう。ただし、教養の意味が〈まんが・アニメ〉の場合は本の内容と結びついているのに対し、『教養としてのゲーム史』は「ゲームを語るなら知っておきたいよね」というスタンスで意味づけされている点に違いがある。

内容の簡単な紹介

 著者が大枠で使った視点が「固定画面」「スクロール画面」「ロールプレイングゲーム」「シミュレーションゲーム」である。
例えば「固定画面」ではファミコン以前の『ポン』から『ブレイクアウト』『スペースインベーダー』『ギャラクアイアン』に続く固定スクロールゲームを具体的に見て、ひとつのゲームが次のゲームにどのような影響を与えたのかをハードウェアの性能向上(=ハードウェアの進化)、とソフトウェアの改良(ソフトウェアの進化)の両輪による螺旋状の進化になぞらえている。
 「スクロール画面」についても『スクランブル』『ゼビウス』『スーパーマリオブラザーズ』が進化の過程に描かれ、「ロールプレイングゲーム」も『ウィザードリィ』『ドルアーガの塔』『ハイドライド』『ドラゴンクエスト』と、有名なゲームに連なってゆく様子が書かれている。
「シミュレーションゲーム」は論理展開が少し逆転している。そこで現実を写し取ろうとする欲望の中でハードウェアとの制約と格闘しながらソフトウェアがどんどん現実へと近づく模様(進化)が描写されるのだ。

評価

全体的に進化の過程を描き出そうとする点は成功しており、著者独自の見解(「見立て」など)も面白い。と同時に紙面の都合もあるのだろうが、中途半端な地点で終わっている箇所が多い。果たして『スーパーマリオブラザーズ』以降のスクロール、箱庭ゲームがどうなったのかが書かれていないのだ。他の要素についても言えて、著者のやりかたは80年代のビデオゲームを分類するには非常に最適なのだが、90年代半ばに入って3D化がすすんだあたりで限界が来てしまう。そこで話が一気に飛んでしまい、『ときメモ』から『ラブプラス』に話が飛躍し、終わってしまうのだ。また、海外ゲームについての考察も不十分である。進化という意味ではサッカーやレースゲームも適当な例にあげられようが、本書では全くふれられていない。

3Dゲームの語りにくさは決して著者の問題にのみ帰着されるわけではない。2Dとは異なる枠組み、そしてハードウェア論争によってゲームソフトを語る楽しさは一歩引いてしまった感が90年代~00年代にはあるのだ。その語りにくさを如実に示している本と言えるだろう。

ビデオゲームにおける作家性と批評

 このコラムはビデオゲームにおける作家性を考え、批評がどのように広がっていくかをスケッチするのが目的である。6000文字あります。長いです。
 まず、意味があやふやになっては困るので作家性を定義する。「個人の行為の結果、ありきたりではなく独特のものが生み出されるとき、作家性がある」としておこう。すなわち読んだだけであの人とわかるような文章であれば作家性があると言える。一方、新聞のようにどこにでもあるような言い回し、文言、構成、内容でつくられた文章には作家性が見あたらないと言うことができる。

ビデオゲームにおける二重の「作家性」

 ふだんあまり意識しないものではあるが、実のところビデオゲームには二重に作家性が存在している。ひとつは作り手側の作家性である。どのようにプログラムを組むか、音楽を組み入れるか、ゲームバランスを調整するか、物語をつくるか、といったものを想像してほしい。例えば堀井雄二が関わった『ドラゴンクエスト』のようなゲームでは他のゲームには見られない言い回しがあったり、主人公が一切喋らないなどのルールが設けられている。そこに私たちは堀井雄二の作家性を見出すわけだ。
 もうひとつの作家性とは、遊び手側の作家性である。ここが小説や映画と大きく異なっている。というのも、ビデオゲームでは受け手が作品そのものに参加してゲームを作り上げてもいるからである。小説において自分が作品世界の中に入り込み、文章を変えていくことはふつうありえない。しかしビデオゲームではプレイヤーがゲームの中の物語をある程度変化させてしまう。こちらの作家性については後に詳しく見る。

作り手側の作家性は本当にあるのか?

 作り手側の作家性は自明なことのように思うかもしれないが、よくよく考えてみるとあやふやだったりする。確かに昔のゲームであれば一人や複数人でプログラムや音楽、デバッグまでやっていたので、作家性は強く出ていたに違いない。一方で、昨今の百人規模で作るゲームにおいて明確な作家性が見えにくくなってきているのも事実なのだ。

 小説が個人の創作の結果生まれ出されたものであるから作家性があるというのは容易に理解できるにしても、ウィキペディアの記事に作家性があるとは誰も言わないはずである。もしウィキペディアの記事に他の百科辞典や概説書に見られない表現があるとすれば、それは「ウィキペディアというシステムによってユニークな書き方が生まれた」と説明するべきである。または「ウィキペディアを編集する人の集団がもつ一種の特性」であるとか、「日本語版ウィキペディアを編集するのは日本人だから、日本人ならではの表現になっている」と解説する場合もあるだろう。つまり個人が消えていくに従って、アーキテクチャという制度や社会を形作る枠組みや、人がたくさんより固まってできた集団や民族という概念を用いたほうが据わりが良いのである。個人の分析に使うべき方法をそのまま集団や社会にむけて使ってしまうのは危険だ。
 であるから、少人数で作ったビデオゲームと大人数で作ったビデオゲームをまったく同じように語ろうとするとどうしても無理が生じてしまうはずなのだ。個人に帰着できる作家性があるものと、なかなか見えにくかったり無くなってしまったものを同等に批評するのは難しい。

 ついでにいれば、大人数がかかわると角が取れた製品になりがちで、語るべき箇所がどんどん取れていってしまう。ありきたりのゲームを語るのは難しいが、クソゲーほど語りやすい対象はない。そして続編が発売されても前作のマイナーチェンジであったりすることも多く、ここに到ってビデオゲームは、語るべき作家性をもった作品というよりも大量生産される工業製品のような存在に生まれ変わっている。工業製品の差異を比較したり批評しようとすると、どうしても「価格コム」や「アマゾン」の口コミレビューに溢れている値段やコストパフォーマンス中心の、買って得した損したでしか切り口のないやり方にならざるをえない。しかし私はそのような方法は間違っていると思うのだ。ではどのような手法が望ましいか、と言われてもなかなか答えがでていないのだが、強いて言えば遊び手側の作家性を生かしたゲーム実況が一つの解決策だと考えている(詳しくは後回し)。

インディーズ・同人ほど語りやすい

 というわけで少人数でクリエイターの個性が出やすいインディーズゲーム、同人ゲームほど語りやすいのである。なぜならば、批評は作家性をもとにするとやりやすく、また多人数が関わる前のデコボコした部分をもっていると尖った部分を語りやすいからである。ビデオゲームに関する優れた論考が80年代のゲームに多く、また同人ゲームはディープに語られているのも不思議ではない。
 このように考えていくとみえてくるのがインディーズゲームである。いまやインディーズゲームは数年前には考えられないほど盛況だ。やはり少人数で作っているので、個性派ぞろいのものがたくさんある。色々と語りたい人間ほどディープな世界へむかっていくこともあいまって、ゲームを語りたいと考えている人がいつのまにかインディーズゲームだけにしか集まらなくなってしまう未来がいつか来るかもしれない。そんな未来は想像したくもないが。

角が取れた大作をどのように批評するか?

 問題は角が取れた大作ビデオゲームである。作り手側の作家性が見えにくく、語りやすい尖った部分もみえないものをどう批評するべきなのだろうか。ここで二つの方法を提示しよう。ひとつは作家性に依拠することなく批評する方法を持ち込んでしまう方法で、もうひとつはゲームの実況プレイである。

 作り手側の作家性に依拠することなく批評する方法とはなにも難しいものではない。たとえば、ビデオゲームのなかでとあるモチーフがいかにして使われているかを追ってみるのがたやすい。具体的には銃である。そのゲームソフトにおいて銃がどのように使われているのかを詳細に見て、銃といかなるつきあい方をしているのか書いてしまうのである。そして他のソフトウェアを比べてしまおう。別に銃でなくて飲み物、天候、女性、思想、なんでもよい。対象のソフトウェアに明確な「制作者の意図」がなくとも、何かしらの批評は書けてしまうはずだ。ただしこのような方法はどっちかというと映画批評で使われている。ほかにもたくさんの種類がある映画批評をそのままビデオゲームにもちこんでしまうと確かに何かしらの文章は書けるだろう。しかしこのやり方ではゲームとはいかなるものか?について思索し、通過した成果が見られない。
 ではゲームシステムについて詳細に考え、構造を分析し、誰が作ったのかをまったく考えないようにしてしまう方法はどうだろうか。具体例としては、対戦ゲームの武器やキャラクターごとのバランス、必殺技やマップについての考察とを書いてしまうわけだ。ビデオゲームのもつ独特のバランス感覚を描こうとする点で、さっきの批評よりも「出来合い」ではなくなっている。おそらく、いまビデオゲームを批評しようとするとガッチリとした理論みたいなものがないため、このあたりが限度になってくるのだと思われる。が、更にビデオゲームの特性を生かした手法が存在する。それがゲームの実況プレイなのである。

ゲーム実況プレイはひとつの批評である

 ビデオゲームの実況がいかにして批評となり得るか、については金田淳子の考察「ゲーム実況、そして刺身 ゲーム実況プレイ動画についての覚書き」(『ユリイカ 特集*RPGの冒険』2009年 4月号)によって明らかにされている。以下、すこしだけ紹介しよう。
 金田によればビデオゲームは

「コントローラーを握る者(プレイヤー)だけがゲームを経験しているのではなく、それを後ろで見ている家族や友人がいる場合、そのような者も、部分的にゲームを経験している」(p186)

とされる。そして、

ゲーム実況における視聴者という位置は、ゲーム経験という意味では、実況者(プレイヤー)を隣で見ている者の位置と、それほど変わりはしない…『ゲーム実況を見る』経験は、『(実況者と一緒に)ゲームをする』経験に近似している」(p187)

と論じられ、次にゲーム実況の面白さについての核心に迫っていく。

文学理論の世界ではテクストはそれ自体では意味をなさず、読み手が解読してはじめて意味が生まれるとする考えはもはや常識の域であろうが、ゲームにおいてもまた同じことが言える」「文字列の解読だけが物語ではなく、プレイヤーの膨大な回り道や試行錯誤、失敗、リロード、親指の腹が痛むほどの○ボタン連打、さらにリロード、その合間に刺身・・・・・・こういった全体はゲームの物語生成である

つまり

ゲーム実況の面白さ…とりわけ、自分がクリア済みのゲームの実況を見ることの…面白さ…は『同じゲームだけど、別の物語』だからである」(p188)

最後に批評との関係性が語られる。

批評の役割のひとつが、そのテクストについての新たな読解の発見であるならば」(p189)、『同じゲームだけど、別の物語』を生み出すゲーム実況は批評そのものに他ならないのだ。

 以上で金田の論考の紹介を終えるが、ここには遊びとビデオゲームに関する重大な接点が隠れている。次項でそれを説明し、この短い記事を終えようと思う。

手段と目的が渾然一体となった「遊び」の楽しさを伝える実況

 「遊び」は大人の社会生活において望ましくないものとみなされている。なにも生み出さないばかりだけでなく子供じみているため、大人はやるべきものではないとさえ言われている。なぜなのだろうか。おそらく「遊び」は手段と目的が渾然一体となっているからだ。

 人は遊んで楽しいと感じるとき、「遊び」を手段にして楽しさを追求しているわけではない。逆に「遊び」を目的としてただやっているわけではない。実際のところ、遊ぶことと快感を得ることはほぼ同時に立ち上がっているのである。このように同時に「遊び」と快感が渾然一体となったとき、人は夢中になれる。没頭できる。我を忘れてわき目もふらずに遊んでいるとき、何が目的で何が手段なのかわからない、いや、遊ぶことを手段にして遊ぶことに没頭している。この様子を傍目から見ると一心不乱に遊んでいる様子は奇妙なものに映るに違いない。なにか精神に異常を来しているのではないか、或いは中毒症状のあるクスリを飲んでいるのかとさえ疑ってしまうかもしれない。病気や中毒者と外観からは区別がつかないのだ。
 また、手段と目的をごちゃまぜにしてしまう態度は、現代の社会生活においてかなり嫌われている。例えば近代人・・・ともいうべき人間像は、何かしらの目的をもって手段を適切に利用する行動する姿を理想としている。グーグルで「手段 目的 混同」とでも検索してみれば、なにやらコンサルタントやMBAやらのビジネス人のありがたい自己啓発のような意識高い発言をいくらでも拾うことができる。そこでは手段と目的の混同や転倒は避けるべきだと述べられている。確かに効率よく仕事を行ったり、現代社会で賃金を得て暮らしていくには手段と目的を的確に分けるのは必要なのである。自律した意思をもって自己の運命を切り開いていく、パワフルでバイタリティーに満ちた人間こそ望ましいとされている。だから、なんでもない遊びに熱中して非生産的な活動を行う人間は居場所がない。ただひとつ遊びが許されるのは、リクリエーションとしての遊びだけだ。つまり、仕事を行うためのリフレッシュをするための手段としての「遊び」なら手段と目的を混同しないので、やってもいいことになる。
 手段と目的が一体化してこそ意味のある「遊び」とほぼ同じ位置にある人間の活動は食事である。食事をとることによって明日生きるためのエネルギーを得ることはできるだろうし、食べなかったら食べなかったでお腹がすいて不快になってしまうので、一見すると手段の意味合いが強いように思える。しかしながら、食事をとるときは単なる栄養補給だけが目的なのではない。食べること自体が楽しいはずである。「遊び」と同じように、手段と目的をごちゃ混ぜにしてただ目の前にある食事を口に運ぶことこそ、食べる行為そのものである。忙しい現代人のための食事と銘打った加工食品の、単調で味わいもなにもない味を想像してもらいたい。食事に熱中させないように作られた、ああいう時間を節約するための食品に食べる楽しみなどほとんどありやしない。

 ビデオゲームにおいての批評というと、どうしてもゲームをやり終わった後にクールダウンをして、時間をさかのぼるように言葉によってゲーム体験を紡ぎなおさなければならなかった。遊んでいるときの熱中している様子や試行錯誤の過程はほとんど無視されてきたと言っても良い。しかし、ゲームの実況プレイはそれを変えた。遊んでいるときの興奮や錯誤といった、文字に表しにくいものをそのまま伝えてくれる。ビデオゲームは基本、「遊び」である。「遊び」は手段も目的も区別がつかない遊びの瞬間にこそ本質がある。その瞬間を的確に他者へ伝えるゲーム実況の即興性にはゲーム批評の新たな地平が開けていると言える
 『孤独のグルメ』という漫画をご存じだろうか。もともとは90年代中頃に連載されていた漫画で当時はそれほど人気があるわけでもなかったのだが、インターネットや口コミによって文庫版がロングセラーになった。サラリーマンが一人で飲食店に入っていき、ただひたすら食べて、様子を実況するだけの漫画である。これと有名なグルメ漫画の『美味しんぼ』は対照的だ。『美味しんぼ』は食に関する薀蓄を語り、好き嫌いを披露する。
 そしていま、食べログにおいては『孤独のグルメ』のような「実況」と『美味しんぼ』のような「薀蓄」の勢力が入り乱れているらしい。食べる瞬間の魅力を伝えるのか、それとも食にまつわる話を伝えるのか。どちらが正解というわけではない。どちらもあって良いはずだ。ビデオゲームにおいても、同じことが言えるだろう。

 

 

注)批評とはいかなるもなのなのかは永遠に解決しない問題ではあるが、今回の記事では「新たな解釈を生むもの」として扱った。きちんとしたビデオゲーム史をつくることは目的としていない。
また、ゲーム実況プレイによってすべての批評が駆逐されるわけではなく、いままで通りの批評とは両立するものだと思っているし、なによりもっと洗練されるべきだと考えている。
最後に『PLANETS VOL.08』の食べログ特集における『孤独のグルメ』と『美味しんぼ』の対比、『PLANETS VOL.07』(どちらも第二次惑星委員会発行)のビデオゲーム特集を再読してわき上がったイマジネーションをもとにこの記事を書き、いくつかの考えや用語を引用していることを付記しておく。

【書評】武田隆『ソーシャルメディア進化論』

武田隆『ソーシャルメディア進化論』 ダイヤモンド社

本の内容を紹介

前半はソーシャルメディアの分析。後半は具体的な業務の話がされています。

ソーシャルメディアとはオンラインコミュニティのことです。オンラインの匿名掲示板(2ch等)に始まり、mixi等のSNS、昨今ではツイッターが代表例ですね。『ソーシャルメディア進化論』は前半部分でそのようなソーシャルメディアの特徴を、インターネットの広がりとともに歴史的経緯から書き起こしています。そして既存のソーシャルメディアに足りない物は何かをあぶりだし、次に解決策を提示する。
解決策として登場するのが企業コミュニティです。平たく言うと、今までのソーシャルメディアに足りなかった物は「コミュニティ作り」でした。誰でも気軽に参加でき、匿名性を失わずに、それでいて社会とつながっている状況を作ることは難しかった。だから企業が率先して場所をつくる(企業コミュニティを作る)ことが大事だ、と著者は指摘しているのです。旧来のソーシャルメディアの何がダメなのかは詳しくは本を読んでください。
で、ここから後半部分が本の主題だとは思います。企業の目的「利益追求」とソーシャルメディアの目的「場所の提供」をどうやって両立させるのかが非常に難しい問題として立ちふさがりますからね。ここで著者はどちらも両立させなければ、ソーシャルメディアの未来はないと言いきっています。インターネットの未来を提示しているといえるでしょう。そして後に著者のビジョンに基づく考察や実例がずっと続きます。本の後半は実際の業務に関係する事柄が多く、このあたりは私が興味なくて読み飛ばしてしまったため、これ以上の言及は避けます。

内容はおおまかにいうとこんな感じ。

我田引水の感想

さて。この本は十数年にも及ぶ多大な実績をもとにして書かれているためか、論点が多岐にわたっています。読んでいると何から話せばいいのかわからなくなってくる(言い方をきつくすれば、文章構成にまとまりがない、とも)。というわけで、思いっきり〈我田引水〉をいたします。

私が頷いたのは以下の二点。まあ普通の話題かもしれないけれど。
1.ほったらかしにするだけではコミュニティは成長しない。後押しが必要だ
2.インターネットは個人の力を生かす。個人の力は組織を伝わって社会全体に波及する

「1」については『龍が如く』で有名な名越さんの発言を本からひくと分かりやすいと思う。私がビデオゲームのレビューでしつこく指摘する事柄にも関係しています。

ゲームの設定と言うのはね、何でも自由にできるようにすればプレイヤーが自由を感じるかと言うとそうじゃない。決められた設定、役割を与えて、ちゃんとルールをつくる。そのなかでプレイヤーに選択肢を与えることが大事だ。このバランスが上手につくれたときに、初めて自由を感じてもらえる

著者の武田隆さんも企業コミュニティに当てはまると書いている。自由を他の言葉に言い換えてみれば色々と応用できる。

「2」は個人的な印象も含めて実感しています。

消費のスタイルが画一化から個別化にむかっているとは度々いわれています。同じ事はコミュニケーションにも当てはまるわけですね。自分の住む村の情報しか得られなかった江戸や明治の時代から、マスな情報が瞬時に行き渡る昭和の時代へと時代はかわったものの、今はまた個別化へと向かっている。みんなで共有していた情報から、僕らだけの情報が価値をもつ時代へと変わってきています。

しかもインターネットというネットワークが個別化をどんどん推し進めている。もちろんマスの力は未だに侮れませんし、ほとんどの情報源はマスコミではあります。ですが、私たちにとってマスよりもミクロな世界、繰り返しせば「私であればこその関係、情報、つながり」は今また重要性を増してきている。ツイッターなどを介して、いわゆる有名人との距離も近くなった。

若干の批評

ただまあ、かなり楽観的に見過ぎだとは思います。たとえば著者はオンラインゲームの廃人を肉体軽視、現実逃避の「繭化(コクーン化)」と命名し、好意的に見てはいません。ところが著者の見るところの未来である企業コミュニティにしたって、オンライン上にしか存在しない組織です。現実の生活があって意味を為すような企業コミュニティを作っているのかもしれませんが、やはりリアル世界との差は著者のビジョンでも大きく存在しています。

インターネットの世界にいると勘違いしがちなことがあるんです。どうしても「世界のすべてがある」と錯覚してしまいがちなのです。これについては著者も従来のソーシャルメディアへ批判として指摘してはいます。しかしインターネット世界とリアル世界だって成り立つ。ネットに接続していない人をどうやって、〈こちらがわの世界〉に引きずり込むのか、は本書には書かれていない。ここについてはまだまだ預かり知らぬところなののかもしれません。
(追記)
かなりボリュームがあって、見るたびに新たな発見がありそうなタイプの本。ソーシャルメディア(2chでも、Twitterでも)の行方を考えたい人にはお勧めできると思う。答えは自分で考え、見るしかないけれどね。

[書評] 街場のマンガ論

 書評はこの文章の後です。書評だけよみたければすっ飛ばしてください。

 

他人と会うことで、自分にはない視点に気づくことができる。当たり前のようでいてなかなか奥が深い。

 

インターネットは自分の好きなように情報を探すことができるツールだ。ともすれば自分が興味を持っていることばかり調べてしまう。そこで、新たな興味をもてるように色々な分野に手を出そうとする。しかし何をすればよいのかという手がかりすら見つけられないことが多い。自分が名前も存在もまったく知らないことを、より詳しく知るようになるには、自分1人の力では限界がある。

 

このとき大きな力になるのは他人だ。自分と他者は違う人間だ。必ず「相手が知っていて、自分が知らないこと」がある。インターネット、というか検索システムはその点で、自分の知っている文字を打ち込まなければいけないので、興味がかなり狭まってしまう。「検索の罠」とでも呼んでおく。

 

ポータルサイトで様々な話題が一緒に交わされているのも、テレビや新聞で視聴者・読者の好みに関わらず多種多様な情報を流すのも、「自分が知らないとすら分からない、完全な未知のもの」を知る手がかりになってくれる。そういう意味ではテレビのような広い広いメディアは捨てたものではない。

 

ウェブサイトはアクセス数を稼がなければならない。誰だって自分の丹精込めたものを見てもらいたいから、アクセスをあげようとする。とりわけ推奨されている方法が、テーマを絞ることだ。ゲームならゲーム、飲食店巡りなら飲食店

巡りに特化させる。特化させると、まあ色々なことがあって(例えば利用しやすくなるとか)アクセス数は伸びやすくなる。

 

ところがアクセスをのばそうとした結果、ウェブサイトなりブログなりは単一の話題だけを提供することにもなり得る。こうなると、既に述べた「検索のワナ」(検索では好きなものしか、知っていることしか調べられないこと)を更に助長してしまわないだろうか。

 

せめて自分のウェブサイトぐらいは検索絶対主義にささやかながらあらがってみようと思っている。そういうわけで、私はゲーム以外のこともたま~に話すのである。

 


 

 

街場のマンガ論 内田樹 小学館クリエイティブ

 

フランス現代思想の専門家がブログに書き溜めた文章を再構成したコンピレーション・アルバム的著作。漫画研究家にあるような目線ではなく、あくまでも思想家として、小さい頃から漫画を愛して多くのことを学んだ人間として、それぞれの文章は書かれている。

 

書かれた年月もジャンルもばらばらだ。井上雄彦論から少女マンガ、宮崎駿論、それにマンガとは関係なさそうな話題もある。考察の視点は面白くとも実証性に乏しいものが多い。著者は現代社会への独創的な視点でいつも読者を楽しませてくれる内田樹。そのような人がときたまブログで見せる「周辺部」、「意外な一面」、「ヨタ話」を集めたものだから、こんな構成になっているのだろう。もとから厳密な論証をしようと思って書かれてはいない。

 

私のようにレビューばかりしている人間はどうしても批評するクセができてしまう。時として本を楽しむことよりも批判を優先してしまう。しかし、場合によっては著者のリズムにノリながら、すらすらと流れるように読んでもいい。楽しく読めるときに文章を論評してしまうと興を削いでしまう。

 

なにせ書かれていることが面白いのだ。

 

井上雄彦論はこんな感じで話が進んでいく。井上雄彦描く物語は「短期期間内に急速に成熟しなければならない少年のドラマ」(16頁)が多く、それは「子どもは葛藤のうちに置かれることによってしか成熟しない」(31頁)と言い切っている。さらにこのような話を描ける井上を「教育的」(61頁)と一呼吸してから、世界中の少年たちに「井上さんの描く物語を読んで欲しいと思っている」(186頁)とまで言い切っている。では具体的そうなのかというのは、ぜひとも本を買うなり借りるなりして読もう。

 

『街場のマンガ論』を読む際は、怪しい話を笑いつつ、あっちにいったりこっちにいったりしながら読むのが良いのかもしれない。内田樹ファンなら見たことがあるような話題やどうでもいい雑記も多いが、そのかわりに骨太な論理や難しいことばは登場しない。

[書評]チョコレートの世界史 

書評とか、漫画評とか、ウェブサイトで公開しないレビューをたまに書いていこうと考えています。

 

チョコレートの世界史 武田尚子著 中公新書

 

チョコレートは美味しい。世界中の人々を魅了する。まさに褐色の宝石である。しかし私たちの手に入るようになってからは100年程度しか経っていない。そこまでは長い道のりがあった。大ざっぱにまとめなおすと以下の通りである。

 

~15世紀:中南米の文明でカカオ豆を使った薬品が飲まれていた

その後、植民地化されるにしたがって、カカオはプランテーションで砂糖とともに栽培される。このとき砂糖とカカオは出会い、ココアが生まれる

ヨーロッパにココアは広がるが、王侯貴族が飲む奢侈品であった

19世紀後半にココアの大量生産体制が整い、一般庶民にも広まる

20世紀に入ると今度はチョコレートの大量消費がはじまる

 

チョコレートを食べられるようになったのはヨーロッパの植民地支配と産業革命が上手く組み合わさった結果だ。本書で著者は産業革命後の生産と消費について力を入れて書いてある。

 

ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は資本主義の精神がプロテスタントの禁欲性にあると指摘した有名な本である。ウェーバーはその本の中で、クエーカー教徒の禁欲性を指摘しているという。なんとイギリスのカカオ・チョコレートの産業の中心を担った産業資本家はクエーカー教徒が中心であった。

 

著者はその中の一つ、ロウントリー社を中心に、クエーカー教徒特有の「真面目さ」を述べていく。従業員の教育に熱心であったこと、20世紀に大企業となったときは週休二日制の採用を行ったこと。社会的活動に取り組むロウントリー社はきわめて「人間的な」企業だったといえるだろう。

 

こうして生産体制が整ったココアやチョコレート。次は消費を拡大するための広告をロウントリー社は打ち出してゆく。最初は豊富な栄養を押し出した使い方を宣伝する。子供が母親に作ってもらったり、男性が力を付けるための飲み物・食べ物として。後に男性から女性への贈り物路線も開拓する。そして誰もが知っている『キットカット』が生まれる。

 

キットカットは当初、朝食や小腹が空いたときに食べるものとして宣伝された。後に時間が空いたときに手軽に食べる面が強調されていく。これはファミリーで食べるものから、個人で携帯するお菓子への変遷を意味していた。ここで本書は終わる。

 

カカオ(チョコレート)は王族が食べるようなものだったが、時代が下るにつれてヨーロッパへ広まり、一般庶民も食せるようになってきた。家族で食べるのも良いし、一人で食べても良い。探検や冒険にかかせないアイテムとして、また戦争の従事するときの強壮剤としても使われる。時を選ばす一口でさくっと食べるキットカットも誕生した。カカオは長い旅を経て、チョコレートへと変わり、私たちの身近なお菓子となったのだ。

 

 受験の季節になるとキットカットが売れるという。語呂合わせで「きっと勝つ」からだとか。そんなキットカットをほおばって長い長いチョコレートの旅路を想像しながら本書を読んでみるのはいかがであろうか。青いラッピングのキットカットなど、貴重な写真も多数収録されている。