ギャンブルと対戦ゲーム その2

ギャンブルとビデオゲームの共通点は「適度なランダム性」であることを既に述べました。しかしもう一つの観点を書きかけたまま前回の記事を放っておいています。今回は以前に触れた「ストレスの蓄積と発散のプロセスがパチンコの中毒性や面白さを生んでい」ることは何なのかを考えます。

「ストレスの蓄積と発散」はビデオゲームにおいてよく見かけますね。例えば『スペースインベーダー』で私たちは攻撃可能な一瞬を狙う。狙えない場面はストレスがたまります。いや、だからこそストレスがたまっているからこそ、一瞬をついて当てたときに快感が生まれる。

もうひとつストレスで大事な要素があります。技術の習得です。わかりやすくいれば、ゲームに慣れるまでの練習です。練習は極端な話、ストレスしか生み出しません。上達していく過程がわかろうとも、わからなくとも、とにかくストレスはたまっていく。

ではストレスが何を生んでいるのか?パチンコの場合と同じです。すなわち、練習によってたまったストレスを、何かしらの場面で発散させることができます。このとき、私たちを悩ませていたはずのストレスが快感を生むための燃料となるのです。逆説的ですが、ストレスがなければ快感は生まれません。

どういうことか。ストレスがまったくないビデオゲームを考えてみればよいのです。見た瞬間に操作が分かり、試行錯誤をしなくとも先に進め、もっとつきつめて言うと先に何があるのか完全にわかっているから敵の攻撃なんてへっちゃらなゲームです。もし以上のようなビデオゲームがあったとして、あなたはやりますか?私はやろうと思いません。ビデオゲームに限った話ではありませんが、先が見えすぎているものはおしなべて退屈です。何があるかわからないから私たちは先を見通したいと思って、ビデオゲームをやるのです。

ゲームや小説で描かれる未来が未知数だから、しかも小説やビデオゲームは劇的な展開が絶対に未来で待っている数だから、私たちは先へ進みたくなる。当座のストレスはいつかの未来で体験する出来事への障害です。しかし、障害がある程度大きければ大きいほど、未来への期待は高まります。未来に直面したときの感動は高まる。なにせ未来は私たちが苦労して手に入れたモノなんですからね。ビデオゲームをやる前からすべてがわかっているのであれば、そもそもプレイする必要はありません

と言っても、難しすぎてもダメ、簡単すぎてもダメ。なのです。パチンコはこのあたりを確率的に絶妙に調整している。ビデオゲームでも、その人にとって良質なゲームとは、全力を尽くしてクリアできるハードルよりもちょっと低めの難しさだったときです。言い換えましょう。自分の限界よりも少しだけ簡単なものをクリアするときに快感を覚えやすいのです。

したがって、「もうちょっとでいやになるなぁ」と感じたときに、ふいに先に進めるようになるゲームが理想だと言えるでしょう。パチンコならば、「負けすぎだからもう帰ろうか」と主尊きにちょうど良く「当たり」がでるとか。このあたりの加減をつくるのは極めて難しい。ビデオゲームでは最初から調整を放棄して、すべてをユーザーに任せてしまうようなモノもあります。

ギャンブルと対戦ゲーム

対戦ゲームが長く遊ばれるための条件を考えていました。私の出した結論はギャンブルと似ている。

“たとえプレイヤーが負け続けていても、何かの弾みが生じて、その結果、勝利してしまう偶然性”が組み込まれているか、です。

パチンコを考えてみると分かりやすいと思います。まず、前提としてパチンコは絶対に「負け」るように作られていることを押さえていきます。そりゃお客さんが儲けまくってしまうとパチンコ屋が儲けられなくなってしまいからね。お店が利益を出せる程度に、お客は負けなければならない。

ところで客が勝ってしまうことがある。普通に考えたら店側としては不利益です。しかし、客がたまに勝たなければパチンコの面白さは生ませません。面白いことにここに逆説があります。ごくまれに勝利できるから、パチンコはおもしろいのです。そして、面白い遊戯機器(パチンコ)を遊ぶ人がいるおかげで店は経営が成り立ちます。

ごくまれに勝利するからこそパチンコは面白い。その理由は何も難しくはありません。ストレスや鬱憤がどのようなことになっているのかを考えると分かりやすい。

パチンコのプレイヤーは普段から負けています。負けがこんできているぶんだけストレスや鬱憤がたまってくる。しかしごくごくまれにもたらされる勝利によって、ためこんだストレスや鬱憤をパーッと発散させている。つまりパチンコにおいて、遊技者は溜めに溜めたモノを一気に開放しているのです。おそらくストレスの蓄積と発散のプロセスがパチンコの中毒性や面白さを生んでいます。全体としては負けているはずなのに、たま~に勝ってしまうから中毒性がある。私のごくごく個人的な想像を述べますと、パチンコをやっている人は純粋に景品目的でやっていないような気がする。景品はあくまでも勝ったときの快感を増幅させるために用意されているように思えます。名機とよばれるパチンコ台はあたりと外れのバランス(や演出)が絶妙なあんばいに調整されているのではないか。

では対戦ゲームに話を移ってみましょう。パチンコのように考えると、「いつも勝てるわけではないが、たまに勝てるから面白いゲーム」が良作となります。果たしてどんなゲームなのか。

技能差によって試合結果が100パーセント決まるようなゲームは論外です。将棋とか、囲碁とか、あるいはビデオゲームなら『対戦格闘ゲーム』や『Quake Live』のような一部のFPS。じつのところ、こういった実力がある人にしてみれば、上記のような能力至上主義ゲームはかなり面白いのです。ですが実力が伴っていない人や、どうしても実力が足りない人にとっては面白くない。

人気があるビデオゲームに必須なのが「適度なランダム性」のように思えます。実力がないプレイヤーでもたまに勝利できる、と言った具合に。というかゲームが遊びの一種として面白くなるための理由に、ランダム性(偶然性)があります。自分の実力通りに行かない面がゲームのうちに含まれているのです。運のよさや悪さを排除するのではなく、ビデオゲーム自体に組み込まれているのです。運を極力排除していこうとする「スポーツタイプ」なビデオゲームとはまったく違う方向が見られます。

ただし、ランダムであればいいと言うわけではない。ここが非常に難しいところでしょう。ランダムな場面がなければ面白くなくなってしまうのにもかかわわらず、ランダム性がありすぎると、あるいは望ましくないランダム性があると、対戦ビデオゲームはつまらなくなってしまう。

(次に続きます)

入力の快感

[E3 2011]ゲームの基本はシンプルなインプットに対して,ゴージャスなアウトプットが返ってくること――板垣伴信氏が語るゲームの根底にある面白さとは

板垣氏:
共通するというか,ゲームの根底というのは,「シンプルなインプットに対して,ゴージャスなアウトプットが返ってくる」って部分。これが基本だよね。

次にNHK取材班編著『世界ゲーム革命』(NHK出版)からの引用。

(引用注:以下の発言は水口哲也のもの) 「強い、弱い、この指揮者感っていうかさ、バーンとやるとバーンと出てくれる。弱くやったら弱く小さく、強くやったら強く大きく、力が感じられるように。ただ量を出せばいいというわけじゃないと思うんだよね。バンッという感じで」

下の発言は抽象的で何を言っているか伝わりにくいのだけれども、水口は「入力に応じた反応をゲーム内の画面で出してくれ」と言っているにすぎません。そこの演出をどうするかを擬音語を使いつつ説明しています。

板垣も水口も実は同じことを言っています。要するに「インプットに対するアウトプットをしっかりとつくれ」、と。ここが大事ですね。先週からのお題である身体性に絡め手考えてみます。

インプットに対する反応がないとき、私たちは操っているように感じない。言い換えるとアウトプットがしっかりと出ているとき、私たちは操っていると感じる。このアウトプットは昨日の記事で触れたように、できるだけ早ければ早いほど良い。インプットとアウトプットの時間が短ければ短いほど望ましい、と昨日は結論づけました。さらに先ほど引用した部分を付け加えると、少ないインプットで大きなアウトプットがあればあるほどよい、とも言えるでしょう。

ただし、それでは水口の言っていることを汲んではいない。重要なのはこの一節です→「バーンとやるとバーンと出てくれる。弱くやったら弱く小さく、強くやったら強く大きく、力が感じられるように」。つまり、自分が入力したぶんの反応を出してくれと言っている。おそらく水口は、「弱く入力したのだったら弱く反応しろ、強く入力したのだったら強く反応しろ」と言っているに違いない。しかも劇的にバッと出てくるような瞬発性をもって反応をしてほしいと考えている。

ここに身体感覚が表れるわけです。水口が使っているのはキネクトですが、コントローラーを使った普通のゲームでも同様のことが当てはまります。例えばジャンプシーンを思い浮かべてください。Aボタンを軽く押せば、ゲーム内のキャラクターが小ジャンプをやってくれるとします。一方でAボタンを長く押して溜めれば、大ジャンプができるとする。このとき、私たちは只何となく感覚でジャンプの違いが分かるのではないでしょうか。軽く押せば小さなジャンプ、重く押せば大きなジャンプというのは、私たちの入力に見事に対応しています。似たような例は一人称視点シューター(FPS)でも見かけます。例えば右手に持った銃を使いたいときは右トリガーを引き、左手に持った武器を使いたいときは左トリガーを引くと言ったように。

いわゆる直感的な操作というのは以上のべたことです。ちょっと抽象的なまとめ方をするとしたら以下の通り。私たちが「ゲームパッドに向かって入力するときの身体の感覚」や「ゲーム内の画像を見たときの感覚」と類似性を持つようにゲーム内のキャラクターはレスポンスを行うとき、直感的な操作が行われていると言える。

まあ、別に難しいことを言っているわけではない。自分の体や心の動きをそのまま反映させられるようにコントローラーのボタンが配置され、操作が整備されているだけのことです。入力と反応がまったく違うゲームは遊びにくい。例えばレースゲームでコントローラーを90度回転させてやってみればいいと思う。曲がるという動作が極めて難しいことが分かるはずです。

そしてゲームになれていない人がキャラクターを右に動かしたいときにコントローラーごと右に動かそうとするけれども、ああいう身体感覚は本当に大事です。ゲームになれていないうちはコントローラーで動かせることに対して納得がいっていない。だったら、最初から手を右に動かすだけでキャラクターを動かせればいいのじゃないか?そう思うでしょう。だkらWiiやキネクトが世に生まれ出たのです。

ビデオゲームは俊敏な反応があってこそ(まとまり不足)

[E3 2011]ゲームの基本はシンプルなインプットに対して,ゴージャスなアウトプットが返ってくること――板垣伴信氏が語るゲームの根底にある面白さとは

板垣氏:
共通するというか,ゲームの根底というのは,「シンプルなインプットに対して,ゴージャスなアウトプットが返ってくる」って部分。これが基本だよね。
板垣氏:
そうそう。演出も含めてね。あと大事なのは応答性。応答性が悪いとさ,これは,俺のスタッフならみんなが知っている言葉だけど,「指が癌になっちゃう」んですよ。
板垣氏:
気持ち悪くて,もう指が癌になる。ボタン押してるのに入力が飲まれるとか。押したつもりがないのに動くとか。うーん,例えばパンチ4発のコンボを出そう と,お客さんが5回パンチボタンを押しちゃったとしたら,それは4発のコンボが終わった時点で止めてあげなきゃだめなわけ。それがそうならずに,コンボが 終わってニュートラルに戻った後に,余計なパンチが出たりしたら気持ち悪いわけですよ。だから応答性といったって,ただ直結させりゃいいってわけじゃな い。お客さんの操作の意図をくみ取ってあげないといけないわけ。逆もしかりですよ。例えばこうやって押している(実際にコントローラーを触りながら)の に,開発者の勝手な都合で,そこの入力受け付けてなかったりするのは気落ち悪いでしょ。
パンチとかはコントローラーを押す音と,ゲーム側のヒット音が同じタイミングで鳴るくらいでなければならないのだけれど,ここにタイムラグがあったり, あるいは戻りの合間にボタンを押しても反応がありませんとかさ。そういうゲームは,俺はやらないし作らない。ベースはそこだよ。

 

上記の引用部分が板垣伴信の考えの中心になっているのかもしれない。『ニンジャガイデン』をやるとものすごくレスポンスが良い。それでていて、微妙に補正されているおかげでもの凄い操作をいとも簡単にできてしまう(そのかわり敵もかなり強いのだが)。

最近私はビデオゲームにおける身体性をキーワードにツラツラと述べている。あんまり調べてないせいで突っ込みどころは多いと思うのだが、板垣伴信の考えも身体性に引きつけて考えるとなかなか興味深い。

レスポンスがよい=まるで自分の手足のように動かせる

見出しにかいたとおりの単純明快な帰結を、板垣氏の考えと身体性から引き出せます。昔から反応が良いゲーム(レスポンスが良いゲーム)はそれだけで評価がされていた。いや、言い方が悪いから言い換えると、即座に反応できないゲームは「気持ち悪い」「ぬるぬるしている」「遅延している」と言われて敬遠されてきた。だからアーケードにおける対戦格闘やシューティングのようなシビアなジャンルにおいて、遅延は敵でありました。

普通のプレイヤーでも遅延が気持ち悪いと体感する方法があります。ひとつはUSBや変換器を使ってコントローラーを扱うか、それとも遅延がヒドイと言われている液晶モニターを使って遊ぶ方法。物理的に距離をとって遅延させてしまうわけです。もう一つはエミュレータが走っているソフトを遊ぶ方法。例えば『タイトーメモリーズ』とかのエミュレータ寄せ集めソフトを遊んでみれば宜しい。あれは内部で変換が行われているおかげで遅延が発生しています。3つ目は、PCゲームならば垂直同期をONにしてしまう方法。これは私のコラムでも触れています。

遅延があると何が気持ち悪いのか。おそらく、ビデオゲームのキャラクターを身体が延長したものととらえているからなのではないかと思います。身体が延長していると考えるのですから、自分の思い通りに動かすことができて当たり前と感じるのも無理はない。というか自分の思い通りに動かせられるから「身体の一部だ」と感じているはずです。黎明期からビデオゲームの制作者たちはレスポンスの良さがゲームに不可欠だと分かっていたように思えます。すぐに反応が返ってこないビデオゲームはそれだけで面白くない(それとも、客がつかない)とさえ考えていたのかもしれません。そういうわけか、世の中に出てくるゲームはどんどん反応が良くなっていきます。ファミコン時代のゲームと現代のゲームを比べてみると、現在のゲームの方が明らかに反応が素早いと思います。

ここで大事なの要素がひとつあります。すぐに反応が返ってくること自体が快感なのではなく、遅延が不快だから、なるべく遅延を減らした方が良いという事実です。もう少し違う視点から述べますと、レスポンスが良いゲームだからといって面白くなるわけではないのです。つまり、レスポンスが良いゲームは面白くなるための最低条件だってことです。最低でも満たさなければならない条件です。

そうして即時的な反応があるビデオゲームが生み出される。私たちはすぐに反応してくれるゲームばかり遊んでいく。すると、入力にすぐに反応するものがビデオゲームだとあたかも感じてしまう。一方の応答が遅い(=遅延する)ゲームは「操っているな」と感じるでしょうが、レスポンスが良いゲームはまるで自分の体のように動かせてしまう。以上のような違いがビデオゲーム独特の身体性を形作っているのではないかと思います。

 

(ちょっとトートロジーっぽい説明になっていて明快ではない。いつか書き直したい)

手を入れた世界と手を入れない世界

基本的に私はビデオゲームを「手を入れた世界」でなければならないと考えています。以前にアップロードした『クライシス2』のレビューを読んだことのある方はわかるかもしれません。読んでない人にも分かるように説明しながら話しますね。

ゲーム内世界の作られ方

たとえばひとつのゲームがあるとします。何かしら大きいフィールドを作り、そこにプレイヤーを放り込むオープンフィールド型と呼ばれているタイプのものです。で、そういうゲームの根幹を案しているのが「大きいフィールド」です。「世界」と言い換えても良いでしょう。

ところで私たちは遊んでいるだけではなかなか気づきませんが、ゲームクリエイターたちは「ゲーム内の世界」を創りあげています。プログラムを駆使したり、マップエディターを使って、遊んでもらえるような世界を事前に用意しています。いわば私たちはクリエイター(創造者)に創られた世界の中に入って遊んでいるわけですね。

ひとつ問題が出てきます。「どのように創っていくか」という問題です。というのもプレイヤーに世界をエンジョイしてもらえるようにゲームは創られているからです。回りくどい言い方なんで言い換えますと、開発者は多くの人に遊んでもらえるように「フィールド」を創っていきます。遊んでもらえないビデオゲームほど哀れなものはありませんから、どのゲームも遊ばれるために作られているとさえ言うこともできるでしょう。

このような開発者のスピリットというべきものがある限り、オープンフィールド型ゲームであっても、「プレイヤーを自然と遊ばせるようなデザイン」にせざるをえないわけです。よくよく考えてみてください。何もない空間にキャラクターを放り込んでも、そこで楽しいゲームができるわけがありません。広大なフィールドに「何かのきっかけ」がなければプレイヤーは途方に暮れてしまうのです。創造性を発揮させるための仕掛けがどうしても必要になってきます。

3つの遊ばせ方

プレイヤーをクリエイティブに遊ばせるための解決法としては主に三つ考えられます。

ひとつは誰かと遊ぶこと。例えばオンライン要素を付け加えれば誰かと遊ぶことができます。他人に触発されて新たな遊びを生み出す可能性があります。他者の動きに自然と反応もする。代表例は『セカンドライフ』のようなメタバース、またはオンラインゲーム。

もうひとつはゲーム側で何かを用意すること。ボールを置いておくとか、サッカー場を作っておくとか、大量のオブジェクトを用意するとか。いわゆる箱庭系のゲームがコレにあたります。奇想天外な遊び方をする前に「ゲーム側から何らかの関与」があります。かなり気づきにくいゲームもありますが、大抵は巧妙に備えられています。いやむしろどれだけ巧妙にするかがクリエイターの腕の見せ所と言えるかもしれない。

このような仕掛けは人間の心に訴えかけられて作られてることが多い。例えば、爆発させてくださいと言わんばかりに爆発物を用意してあったり、蹴ってくださいといわんばかりにボールが置いてあったり。何をどのように用意するのか、によって遊び方も変わってきます。配置の仕方が重要です。代表例は『グランドセフトオート』や『Crysis』の前半部など。

最後に、ゲームの世界が刻一刻と変化していくような方法も考えられます。おそらくこれからのゲームで取り入れられていく手法でしょうね。

まるで人間のようなAIを搭載した敵を出したり、世界がまるで生きているように変化するのであれば、私たちプレイヤーは常に変化する状況に対応し続けなければならなくなります。「外界が変化し、その変化に応じて私たちも対応を変えている」とも言えます。つまりプレイヤーの置かれた状況を変化させて、プレイヤーを創造的な方向へ導き、遊ばせていくわけです。

巧妙なデザイン

以上の三点の違いは色々と考えられるわけですが、今回は「本当に楽しいのか?」という観点で考えてみましょう。

ひとつめの他人と遊ぶ・・・は、チャット機能なども搭載すれば割と面白いものになり得る可能性はあります。しかし対戦ゲームであればどんだけクソであっても誰かと遊べば面白くなってしまう。メタバースであれば運営が何もやらないこともある。そういう意味ではプレイヤーに丸投げしている面がある。

ふたつめの「巧妙なデザイン」はもとより楽しませるようにつくられていますから、クソゲーを除けば問題はありません。

みっつめの自動生成(またはプロシージャル処理とでも言えば良いと思う)には、実のところ最高の方法に思えます。二度と同じようなものに会えない世界、常に変わり続ける状況、まさに楽園ですね。未来のビデオゲームです。ところが自動生成には大きな欠点があるのです。

実のところ私たちが面白いと感じるものには客観的な基準がありません。小説でも映画でもゲームでも、演劇でも、漫才でも、遊園地でも、なんでもそうでしょう。もしも面白いと分かる基準があるとしたら、世の中すべての小説やビデオゲームは良質なものとなっているはずです。科学的に認められた絶対的な基準があって、そして皆が皆追随できるのであれば、「小説家」も「お笑い芸人」もいるわけがないのです。優れた芸術を生み出す基準がはっきりしていないからこそ、芸術家も作曲家もいる。ここが重要な点です。最終的に人間の手が加わらないと、微妙なさじ加減が効きません。「さじ加減」を調整することによってビデオゲームでも小説でも何でも、繊細さが生みだされます。

ところがプログラムに応じて自動的に生成される世界は、楽しい世界かどうかは全くもって保証されていません。もし自動生成される世界が素晴らしいものであるとすれば、以下の条件が必要になってきます。プロシージャル処理で面白い世界を作れるようになる前に、私たちがどのようなものを面白いと感じるかを明らかにしないといけないのです。つまり既に「面白いものを生み出す(=面白さを判断する)」ためのコードをプログラム内に組み込んでいなければ、プロシージャル技術で生み出された世界はおもしろくなりえない。もし人間だったら相談して「面白いことやろうぜ!」とでも合意できるものの、コンピュータプログラムにそんなことは望めません。

但し注意点を1つ。私はプロシージャルを否定しているわけではありません。上手く使えばゲームを作る際には手間を減らせるからです。すべてを自動生成させるのではなく、最終的な調整は人の手に委ねられるようにビデオゲームを構築するのでも良いと思います。言い換えると、勝手に生成されても良い部分と、生成されてはいけない部分を分けられるのであれば、まったく問題ない。要は自動生成された世界を人の手で制御できるのであれば、または人が制御できる範囲でプロシージャル処理を使うのならば何ら気にすることはありません

このことはプロシージャルだけでなく、自由度をウリにするゲーム全般に言えます。完全なる自由を指向するゲームでないのだったら、何かしらの歯止めをかけて遊ばせなければなりませんそのビデオゲームにとって意味のない自由度はそぎ落とし、意味のある自由度を充実させなければならない。例えば、派手なアクションゲームにおいて、蛇口の前でボタンを押せば水が出るとかトイレの水が流れるようになっているとします。世界からの反応があるのですが、果たしてこんなことは必要だったのか?確かに水を出せばゲームが有利に進むとか、アクションがキまるとか、そういうのがあれば意味はあります。しかし、世の中には反応があるだけのビデオゲームが相当数あるんですよ(『Prey』、『Singurarity』など)。このような自由度はまったくもって無意味でしょう。自由度それ自体を目的としないゲームに無駄な自由度を与えても、面白さとは無縁です(臨場感や世界のイメージを膨らませることに役立つのなら良いが)。制御できない自由度を取り込んでも、徒労にしかなりえない。

以上のようなことから私は「手を入れた世界」が望ましいと考えています。自動生成による無秩序、または自由度の追求による完全な自由を目指そうとするビデオゲームはほったらかしでも構わない。ですが、何かしらの意図をもってつくられたビデオゲームであれば、どんどん世界を作って変えていくことも大事なのではないか。

美しい庭や、懐かしい里山は人の手が入っているからこそあのような形になっています。放っておくと荒廃してしまいます。人の手がなければ美しい姿をとどめられない。ビデオゲームだって同じ。最後は人の手で整えられる。

 

※追記

自分で楽しみを見つけられるのであれば、完全自動生成ゲームでも楽しめると思います。