物語をゲーム内で語るか、ゲーム外で語るか

ビデオゲームは物語を取り入れることで発展してきました。しかし「ゲームで遊ぶこと」と「物語を楽しむこと」は必ずしもリンクしているわけではありません。どうしても物語を取り入れることができない形式のゲームがあるのです。例えばカットシーンやムービーパートを不必要に入れると試合の流れがぶつ切りになってしまうスポーツ系のゲームが代表的でしょう。ほかにも、アクションゲームにおいて物語をプレイヤーに知らせるために長い長いテキストを読ませてしまうと、もはやノベルゲームなのかわからなくなってしまいます。どの程度物語表現を取り入れるかはきわめてデリケートな問題をはらんでいます。

この記事では、物語を過度に見せるのに適していない形式のゲームにおいてどのようにしてプレイヤーに物語を見せていくか、について考えます。そして、物語をゲーム内で語るかゲーム外で語るかにつながっていく様子を描写していきます。

 物語を十全に表現するために適さないゲームとは何か?

ビデオゲームのジャンルにはさまざまなものがありますが、物語を表現するのに適しているものと適していないものがあります。適しているものとしてはアドベンチャーゲームが代表例でしょう。もともとテキストですすめていく物語を楽しんでいくことを目的にアドベンチャーゲームは作られています。アドベンチャーゲームと類似点が多いRPGも比較的親和性が高いといえます。ただ、コンピュータRPGは物語を楽しんだり役割を演じたりするよりも戦闘(バトル)に特化している面があり、一概にこうであるとは言い切れません。

適していないものは何でしょうか。冒頭で述べたサッカー野球等スポーツの試合をシミュレートするものが真っ先に思い浮かびます。ほかにもレースゲーム、将棋・チェス等のボードゲームも同じように「現実の模倣例」として浮かび上がってきます。しかし後述しますがストーリーを組み入れたゲームはいくつも存在します。

実際は適しているのか適していないのかわかりにくいものもあります。アクション要素を楽しむように作られていたゲームがわかりやすいと思います。用意されたステージをクリアしていくマリオブラザーズは物語の表現に向いているのか向いていないのかといわれても微妙なところです。向いている面としては、例えば主人公のマリオが山を越え川を越えピーチ姫を探しに行くシチュエーションを表現できるという点が指摘できます。プレイヤーはいろいろな場所を探索する楽しみが得られるわけです。しかし過度なカットシーンや物語をみせるために楽しくもないシチュエーションを用意してしまうと、アクションゲームとしての楽しさを損なってしまいます。つまり、ストーリーをみせることでゲームの質が高まっていく面を持ちながらも、ある閾値を越えてしまうとひとつの作品として破綻してしまうゲームである、といえます。違う言い方をすると、これでもかこれでもかと話を盛り込めないゲームと表せますね。

世の中ほとんどが太字で強調したゲームです。ビデオゲームにストーリーが必要か否か?といった簡単な問題ではありません。必要であるのは当たり前なのだが、さてどの程度必要であるのか?それが重要なのです。

 過剰なストーリーをどのように取り入れるか

ではストーリーを取り入れる具体例をみていきましょう。

『ストリートファイター2』ではリュウ、ケン、ホンダ、ザンギ、ガイル・・・といった個性的なキャラクターを用意し、異種格闘技戦を舞台にしました。それによって無個性な格闘技といったものではなく生き生きとした表現が可能になりました。本来はストーリーを見せにくいタイマンバトルに、豊かな物語性を負荷しているのです。ただ、格闘ゲームはそれ以上のストーリーを盛り込めていません。試合前後の掛け合いとか、各キャラクターの背景だとかが公式サイトで配信されていたりしますが、このままではゲームの根幹に影響がありません。ここでは格闘ゲームに多く見られるような、物理的にゲーム外で物語を補う形式を【外部化】と呼んでおきます。

次は野球ゲームを見ていきましょう。『実況パワフルプロ野球』のサクセスモードがストーリーを取り入れたものとして白眉です。野球の試合というのはそれだけとりだしても物語性の付加には限度がありました。しかし試合を「人生の大きな流れ」に位置づけてみたらどうでしょうか。高校の一試合、練習試合、甲子園、あるいはプロの二軍戦・・・。そうやって一つ一つの試合を大きな物語のいちピースにすることができます。元々パワプロのサクセスモードは恋愛シミュレーションゲームの『ときめきメモリアル』をそのまま引っ張ってきたようなモードでした。『ときメモ』はただお目当ての女性を落とす恋愛ゲームではなかったところに豊かなストーリーを見出せます。つまり「文化祭などの高校生活をシミュレートする」という大きな流れの中に「最終的にデートを行い告白される」ことが盛り込まれていたのです。『ときメモ』以前の美少女ゲームでは大きな流れを意識したものは少なく、そこに大ヒットの要因があるといわれています。ただ、サクセスを取り入れた後にパワプロの試合が大きく変わったわけではありません。以上のように位置づけを変えることで物語っぽくすることを【相対化】と名づけておきましょう。格闘ゲーム・レースゲームでいうストーリーモード、またはゲームの中に別のゲームがある場合、と表現しても良いかもしれません。

ファイナルファンタジーを考えましょう。ファミコン時代からRPGとしては異質なほど演出に力を入れたゲームとして知られていますね。例えば『FF1』はオープニングが始まるのはさいしょの橋を渡ったあとだったり、『FF2』で味方キャラクターがどんどん死んでいったり、『FF6』でオペラを再現したり、と豪勢な演出を行っています。『FF7』にいたっては当時としては最高の品質をもつムービーを次から次へと挿入し、このフォーマットは今でも続いています。で、よく言われるようにFFでは明確にストーリーと戦闘(バトル)の面白さが分離しています。ストーリーが豪奢になっていくものの、戦闘の面白さとストーリーには直接関係がないというわけです。しかしゲーム自体に物語を組み込んであるわけで、これを【内部化】と言いましょう。

 

もうひとつは物語を展開させることそれ自体がゲームの目的になっているものです。むずかしいことを考える必要はないですね。アドベンチャーゲームや、あるいはTESシリーズといったRPGで世界を旅することが楽しいものを想像してもらえればよいでしょう。これを【一体化】と称しておきます。

ただまあ【相対化】と【内部化】は線引きがかなりあいまいではあります。

 

【外部化】の危険

【外部化】、【相対化】、【内部化】、【一体化】の順に物語とゲームが融合しています。もういちど述べますと、とあるゲームを構成する根幹要素があるとして、それを生かすために物語を外部で補うか、一方ゲームの中で捕らえなおしてみることで相対化し物語のひとつとして位置づけるか、根幹要素と平行して物語を進行させて内部化させるか、それとも物語を楽しませることが即ゲームの根幹であるように一体化させるか、といった違いです。

ここからは私の個人的な意見になりますけれども、【外部化】は好きではありません。ちょっとイージーすぎるかなと思うのです。しかし物理的に外部へ移動させるならまだしも、【相対化】に失敗して【外部化】のようになってしまったゲームほどこっけいなものはないので、最初から徹底的に【外部化】するんだったら良いとは思いますけどね。

 

【相対化】に失敗した【外部化】の典型例をひとつ挙げておきましょう。

ひとつは『F.E.A.R.』です。2005年に発売された有名なFPSです。これの難点はストーリーテリングです。ジャパニーズホラーとFPSの融合と騒がれていますが、実際はストーリーなんてものはなく雰囲気を楽しむゲームだったのです。どうにかして話の全体像を浮かび上がらせるためにはマップの各地に落ちているボイスレコーダーをいちいち聞かなくてはなりません。アクションゲームなのにご褒美が何か貰えるわけではない探索をし、わざわざ立ち止まって聞かなければならなかったのです。しかも物語の核心はいつまでたてもぼやかされたままでした。海外製のFPSにはこのような「ストーリー知りたければマップにおちているテキストを読んでね」というものがちらほらあります。確かにストーリー不要だと考えている人は飛ばせばいいし、ストーリー必要だと考えている人は丹念にマップを探査すればよい・・・のでしょう。ですが、それって安易すぎると思うのです。ゲームの中で物語とアクションパートを相対化しようとしているにもかかわらず、実際は外部化しているだけにすぎません。

「映画的」なゲームについてのメモ(論考ではない)

「映画的なゲーム」という表現は20年以上まえから使われている表現なのですが、定義が与えられていないまま漠然と使われています。同じような言葉に「ゲーム性」や「自由度」があります。ここで単純に言葉の使用を批判してもよいのですが、私はむしろそのような言葉が使われているのななぜだろうかと考えたほうが良いと思っています。おそらくビデオゲームを考える上で重要な何かが潜んでいるのです。

ゲームを語る上で使われる言葉「映画的」にはいくつかの意味がまぎれこんでいます。

1.映画で使われている表現方法を精査し、ゲームに移植してみたかどうかをみる立場

たとえばコンティニュイティ編集を利用しているか、モンタージュを意識しているか、といったもの。20世紀はじめごろに確立し、こんにちでも使われている映画の手法をなぞっているかというわけです。

2.スポーツのように勝敗を決める側面だけでなく、豊かな叙情性などの物語をゲームに導入したかどうかをみる立場

小説的と言い換えても良いでしょう。わざわざ映画的と言っている理由は、ゲームと映画はどちらも映像を使った表現方式だからだと思います。あとは社会的に程度が低いビデオゲームが、割と高い映画への対抗意識を燃やしている可能性もあるでしょう。

3.自分でキャラクターを動かせない場面があるかどうかをみている立場

「2 」と若干違います。3は単に操作できないカットシーンが紛れ込んでいるかどうか、といいかえても良いと思います。2の場合はたとえばリュウ、ガイル、ザンギエフ等の個性的な面子がいる『ストリートファイター2』なら物語性の導入を意識しているといえますが、無個性な空手家、軍人、レスラー等がでてくる『ストリートファイター2(もちろん架空のゲームです)』なら物語を意識していないといえます。ややこしくなるのでここではキャラクターと物語の関係はみません。

4.ゲーム作成の方法が映画製作とにているかどうか

予算を引っ張ってくるプロデューサーがいて、その下に製作のトップであるディレクター(=監督)がいて、そこからグラフィック・ミュージック・バトルプログラム・シナリオ・等々のディレクターがいて・・・といったような意味合いです。ただ、現代の大規模なゲームはほぼこのような方式になっているみたいですね。


でまあ、ちょっと意地悪な言い方をしますけれど、ネットとか雑誌でほとんどの人が映画的~と言うときは「2」か「3」、とくに「3」のカットシーンの連続を指しているようなことが多いと感じます。あんまり意味もなく使っているのかもしれません。

『メタルギアソリッド』で有名な小島秀夫は「1」を中心に「2」を意識しているのかな、と思います。ファイナルファンタジーシリーズは明らかに「1」よりも「2」重視です。

最近いろいろなゲームで目にするQTE(クイックタイムイベント)は映画のような映像を見せながら、なんとか操作をさせようとする方法です。これは「1」と「2」を重視すると批判されやすい「3」をどうにかして組み入れようとした結果だと思います。先月発売された『バイオハザード6』はずいぶん1を意識しています。『バイオ4』はいまいちでしたが『バイオ5』から意識的にQTEの可能性を模索しているといっていいかもしれません。

 

あと注意してほしいことなんですが、この記事はファミ通バックナンバーやネット掲示板の過去ログすべてを見てから意味の違いを分けているのではありません。あくまでも印象論です。

RPGにおけるシナリオの分岐と一方通行シナリオ

今回はRPGの典型的な手法について日本ファルコムの例を出して考えます。引き合いに出すのは英雄伝説シリーズの『III』~『VI(空の軌跡)』です。

ファルコムの英雄伝説シリーズ『III 白き魔女(しろきまじょ)』『IV 朱紅い雫(あかいしずく)』『V 海の檻歌(うみのおりうた)』はガガーブトリロジーといわれる一連の物語を成しています。しかし『朱紅い雫』には二つのバージョンが存在します。ひとつはPC-98とPSで発売された旧『朱紅い雫』、もうひとつはWindowsとPSPで発売された新『朱紅い雫』です。旧『朱紅い雫』は厳密にはトリロジーに含めにくいと思われます。後にリメイクされた新『朱紅い雫』は間違いなくガガーブトリロジーです。

発売された時系列は『白き魔女』(1994)→旧『朱紅い雫』(1996)→『海の檻歌』(1999)→新『朱紅い雫』(2000)です。もともとは『VI』と呼ばれていた『空の軌跡 FC』は2004年に発売されました。

『白き魔女』と旧『朱紅い雫』の違い

『白き魔女』が発売されたのは1994年。その2年後の1996年に旧『朱紅い雫』は発売されました。旧『朱紅い雫』は『白き魔女』を丁寧に反省して作ったゲームです。そのことをこの項目でお話します。

RPGとして類がないほど『白き魔女』は一方通行のゲームです。主人公二人は生まれ育った村から旅に出ますが、プレイヤーは立ち寄った村や町には自由に戻れません。シナリオの進むがままに任せて次の町へ行ったり、元来た道を戻ったりするのみです。しかし次から次へとミニストーリーが展開するので自由度の低さはあまり気になりません。

戦闘についてもやはり一方通行のゲームです。無理矢理レベルを上げることはできますが、基本的にレベル上げの必要はあまりありません。
武器や魔法は必要最低限のものだけが用意されています。セガサターンに移植された『白き魔女』はこのようなシステムを更におしすすめた結果、戦闘すらもイベント化し、まるでアドベンチャーゲームのようになっています。

『白き魔女』方式のリニアなゲームは、プレイヤーが寄り道をできなくさせてしまう欠点がある反面、ゲーム側でイベントの厚みを持たせることができます。難易度の調整もやりやすく、バランスを破滅させにくいのも利点でしょう。RPGに限った話ではなく、アクションゲームやシューティングゲームでも演出重視のゲームは一方通行に作られていますね。

○『白き魔女』のゲーム進行を図示すると以下のようになります。

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旧『朱紅い雫』は『白き魔女』の窮屈さを反面教師にして、比較的自由なゲームプレイを目指して作られました。まずゲーム開始早々にキャラクターメイキングがあります。選択肢によって主人公の能力や魔法の種類が変化します。そしてエンディングを見るために必要なメインシナリオの他に、クリアしてもしなくてもよいフリーシナリオが幾つも用意されています。仲間キャラクターについても、9人いるキャラクターの中から2人のメンバーを選んで同行させることができます。

そのおかげで旧『朱紅い雫』は冒険している感じをうまく演出できています。主人公がフリーシナリオで仕事を請け負って、山深くにある洞窟へ探検に行き、クエストを遂行する。勝手気ままに彷徨うのもよし、仕事をこなすのもよし、街道に隠されたアイテムを探すのもよし、です。戦闘については仲間が多様なので戦略を組み立てるのも楽しく、主人公の能力が可変なのでクリア後の再プレイへの動機もあります。

しかし、自由な遊び方ができる反面、欠点もいくつかあります。シナリオがどれも似たり寄ったりで深みがありません。仕事を請け負っても洞窟の奥にいる敵と二・三会話があるだけのシナリオの多さったら。ゲームバランスも適切ではありません。強すぎる攻撃魔法、使えない精霊魔法、使い道が難しい一部味方キャラの存在・・・等。実は『白き魔女』もちょうど良いバランスだったとは言い切れないのですが、旧『朱紅い雫』ほどのなんでもありではありません。

旧『朱紅い雫』のような分岐が多いゲームはプレイヤーによってそれぞれ異なるゲーム体験をさせるのに適しています。しかしひとつの話を深く掘り下げにくいため、どうしてもサブリナリオが薄い話ばかりの蛇足になってしまいがちです。ちょうどよい難しさに設定するのも至難の業だと思われます。

○旧『朱紅い雫』のゲーム進行を図示すると以下のようになります。
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旧『朱紅い雫』と新『朱紅い雫』の違い。そして『空の軌跡』との関係

旧『朱紅い雫』から4年、新『朱紅い雫』が発売されました。リメイクです。リメイクされるに当たって色々な変更点があるのですが、最大の変更点はやはりフリーシナリオの取り扱いでしょう。フリーシナリオは撤廃され、完全な一方通行ゲームに生まれ変わりました。
話の展開も『白き魔女』のようなものになり、ガガーブトリロジーとしての統一感が出ています。ちなみに『英雄伝説V 海の檻歌』も『白き魔女』と同じようなコンセプトのゲームです。つまりガガーブトリロジーは「一方通行シナリオのストーリー重視ゲーム」なのです。

さてトリロジーとは全く異なる世界・設定で新たに作られた『空の軌跡』シリーズ。これはどうだったのでしょうか。結論から言うと「一方通行シナリオのゲームにフリーシナリオが折衷されたゲーム」です。旧『朱紅い雫』でいうフリーシナリオがブレイサークエストと名前を変えて復活しています。密度の高い話の骨幹を維持したまま自由度を高め、戦闘を楽しませようとするなら、そういった方向になるのは当然のことなのかもしれません。

次なるRPGの手法はいかに?(結論は出ない)

今まで見てきたRPGの手法は「一方通行」と「一方通行に分岐点を追加したもの」の二つでした。

『空の軌跡』は良くできたゲームですが、さて、次なるゲームはどうなっていくのでしょうか。その前にもうひとつの方向性を見てみましょう。「メインシナリオすら存在しない、すべてが選択できるもの」です。代表作はTESシリーズであったり、MMORPGでよく使われている方法です。

○全てがサブシナリオのゲーム進行を図示すると以下のようになります。
このようなゲームは膨大な選択肢を
選ぶ楽しさはあるものの、どうしてもショートストーリーの連続にしかなりません

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「一方通行」はかつて岡田斗司夫が『東大オタク学講座』で述べたように、テキスト中心のアドベンチャーゲームやアニメや小説の発展版でしかありません。まず小説のように話を作り、その時々で主人公の前に立ちふさがる壁や山場を描きます。壁や山場を戦闘シーン(=ボス戦)に置き換えればRPGになるというのです。一部のRPGにおけるストーリーテリングの本質をついていると思います。
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「一方通行に分岐点を追加したもの」はRPGのみならず現在考え得る多くのゲームで使われています。確かに寄り道できることがビデオゲームらしさを演出してはいます。しかしあまりにありがちな要素で飽きてきませんか?分岐点についてもメインシナリオを脅かすほどのボリュームがあるわけでもなく、ただの「お使い」「小話」になっていることが多くありませんか?
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さんざん引っ張っておいて何言ってるの、という感じですけれど、新たなRPGの手法についての明確な答えはいまのところありません。強いて言えばオンラインゲーム化によって物語や戦闘が再生産されていくようにするのが最新の手法ではあります。ただしなんでもかんでもオンライン化すれば良いわけではありませんね。それはオンラインゲームをやってみればわかります。ライターが丹精込めて作り上げた物語を楽しめるわけではありませんから。

○再生産されていくゲーム進行を図示すると以下のようになります。
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ストーリーについての覚え書き程度の戯れ言

 

『広告』という雑誌の2011年10月号に載っている記事を紹介。

私は内容についてほぼ賛成しています。

引用記事の要旨

ビデオゲームの面白さを引き出すのは何だろう?

「ロールプレイング」、「パズル解き」、「感情移入」、「リスク」などなど、伝統的にはこのようなことが言われてきました。ところがいまは「ストーリーテリング」が脚光を浴びてきているのではないでしょうか。とくにデジタルな分野では未開拓だと思われているのがストーリーだと言われている。

しかし著者はストーリーがストーリーとして作用するためにはディテールが必要だと述べます。ビデオゲームではどんなディテールが大事か。例えば建物を作り込む、人物を魅力的にする、コスチュームをきらびやかにする、シーンにあわせた音を作る、そういったものです。以上述べたような細部があって初めてストーリーは魅力的になります。いや、ストーリーというのは様々な要素をひっくるめたフレームワークのことであり、抽象的でとらえどころのない概念です。

ストーリーは「近道」になんてなりえないのです。 (以上要旨終わり)

最近のビデオゲームは本質が見えにくいだけ

ここからは自分の意見。

私は昔のゲームと今のゲームはやっていることは違うものの、面白さを生み出すメカニズムはほとんど変わっていないと考えています。例えばレースゲームを考えてみましょうか。ファミコン時代ですらフロントビュー(遠近法を利用した視点)のレースゲームは数多くあります(外部リンク参照→http://nesgbgg.seesaa.net/article/105833380.html)。で、このファミコンのレースゲームと最新のレースゲームはなにが違うのでしょうか?相も変わらず「複数プレイヤーで競争」「一人でタイムの限界に挑む」が中心の遊び方ですよね。

もちろんプレイヤーに要求される技術は昔と今は異なります。端的に言うと操作方法が違うわけです。昔は十字キーでやっていたものが今ではアナログスティック、またはハンドル型コントローラーで遊べるようになりました。しかし繰り返しますが、レースゲームの本質は変わっていません。

今と昔で大きく変わったのは見た目(グラフィックス)です。最新のレースゲームであってもテクスチャーをはぎ取ってしまえば、15年前のプレイステーションで発売されたものと変わりない。さらに大胆に見ればワイヤーフレームのゲームになり、3Dをやめるとファミコンのようになるかもしれない。

さて「昨今のゲームはややこしい」と言われます。このことについては様々な考察がありますが、いままで述べてきたことをもとにして考えていきます。

要はゴテゴテしているのです。無双なりなんなりを考えてみてください。操作方法は複雑になり、見た目も豪華になりすぎている。ですが昔も今も、画面に表示されるキャラクターを操って敵に攻撃を当てることは変わっていない。敵の攻撃パターンを読んで回避することも同じ。つまり面白さの質は変化していないのです。

ここでひとつ疑問が出てきます。 「どうして操作を複雑に、画面を豪華にしたのか?」という疑問です。次の項目に移りましょう。

ストーリーは未開拓か?

本質が変わっていない理由はおそらく新しい遊びを考えるのは難しいからでしょう。ところが人間不思議なことに、新しい遊びに触れなくても楽しめてしまうものです。私たちが遊んでいるときに面白いと思える瞬間が二つあります。一つは見たこともない瞬間に出会う驚き。もう一つは遊びに習熟してルール内で自在に動けるようになった瞬間。ビデオゲームになおしてみると、新作を買い続けるのが前者の「見たこともない瞬間出会う」面白さに繋がり、クリアしたゲームをやりこむのが後者の「習熟」にあたります。

ユーザーとしてはどっちの方向で楽しんでも良いわけです(余談:対戦ゲームはどちらの面白さも提供してくれる優れものです)。ただしビデオゲーム会社は新作を売らなければなりません。「習熟」の面白さを認めつつも、やはり「新作」の驚きを味わってもらいたいとメーカーは考えます。

ということでメーカーはジレンマに陥ります。〈新しい遊びを作るのは難しい〉、しかし、〈新しいものを売らなければならない〉。そこで登場するのが細部を変えた新作です。システムそのままに新ステージを追加した拡張版、グラフィックを差し替えただけの新作(死に体のケータイアプリとかに多い)、本質はそのままに追加要素を加えて「新奇性」と「習熟」を強制的に生み出した続編、といった感じです。私はこうしたものが悪いとは言いません。どうしても出てきてしまうものだから諦めなければならないとさえ思っています。

ここまでくると、引用記事の要旨と話が接続してきますね。未だに手つかずの分野が「ストーリーテリング」であると思われているのです。小説、映画、漫画などを見ると新しい作品が次々と生まれている。オキマリの展開だってあるけれど、新作は次々と生まれている。それに過去の小説は膨大な量に上るわけで、元ネタはいくらでも探すことができる。ビデオゲームがストーリー性を押し出すようになっているのは、単に遊びの本質を変えられないからこその苦肉の策なのではないでしょうか。こうしてストーリーのみならず、ゆたかな音楽、驚きのグラフィックといったものを次々と付け加えられていきます。まるで雪だるまのようにふくれあがっているのが最新のビデオゲームです。

ディテールの重要性

次に問題となってくる要素があります。ディテールの問題です。僕はビデオゲームほど情報量がおおいメディア媒体を知りません。文章がある、映像がある、音がある、物語が分岐する、いくらでも動かして世界を探検できる。あまりにも大量です。小説とビデオゲームを比べてみてください。人物の顔をモデリングしたり、モーションに力を入れたり、音を出したりする必要はありません。

これは何を意味するのでしょうか。小説の方が楽に作れてしまうのだと思います。とんでもないほどの細部まで作らなくともたいていの小説は作れてしまいます。一方でゲームではそうはいきません。新作になればなるほど絵的な情報量は増え、ごまかしが効きにくくなる。ゲームらしさにこだわって描き込むと途方もない量になってしまう。おまけにディテールに少しでも欠点があれば、プレイヤーへの違和感となってあらわれてしまいます。

しかし綿密に創られたビデオゲームは驚くほどのリアリティをもって私たちを楽しませてくれる面もあります。「絵」と「音」が組み合わさって織りなす世界から生まれる感動です。ここにストーリーが乗せられることで、更に心を揺さぶってくれます。自分で動かせる経験を逆手にとるような物語、まるで自分が主人公になったかのような経験、ビデオゲームにしか表現できないものがそこにあります。

最後にまとめておきます。ビデオゲームのストーリーはしっかりとしたディテールがなければ意味をなしません。細部があって初めて、物語が駆動し始めます。だけどストーリーを充実させようとする方向性は、ゲーム会社がおこなってきた雪だるま式の強引な売り方でもあります。

先が見えないものを買うこと

ビデオゲームには大まかにいって二種類の購入方法があります。情報量の差で分ける。もちろん現実にはこの2つは厳密には分けられません。

ひとつは体験版などで「情報を十分に得てから」買う方法。オンラインゲームなどの有料アイテムも同じ部類に当てはまります。

二つ目はあまり「情報を収集せずに」買う方法。体験版がそもそも出ていないゲームや、ジャケ買が典型例ですね。

賢い購入法とは何か

賢い消費者というのは一つ目のような方法でものを買います。ゲーム雑誌、ゲーム情報サイト、動画、体験版、他人からの評判を総合して、ビデオゲームを買うか決める。買う前からビデオゲームについてよく知っているとさえ言えるかもしれません。

このような人たちは自分の期待を元に商品を評価します。購入前に「この商品を買った後にどれだけのものが自分に得られるのか」を予想して買っているのです。「何が得られるのか」が分かってからお金を出している。さすがにラストまで分かった後に購入しているわけではありませんが、少なくとも何かしらの予想を立てて買っていることに変わりない。

究極的には払った金額に見合うものが手に入ったかで商品を評価する。まあつまり消費社会の勝者です。

賢くない方法にも利点はある

ではもう一つの購入方法は何なのでしょうか。これは商品から得られるものが何かを知らないで買う態度と言えるでしょう。不思議なことに、どのようなものか分からないのに買うのです。いや、わからないからこそ買っている。消費者として賢いかバカと言われたら、そりゃあバカなんだと思います。なにせクソゲーか、自分にあうのかどうかすら分からない。

だけど買うんです。そこに未知の出会いがあるかもしれないから。自分が選ぶことは確かに賢いやりかたでしょう。しかし、選択する際にはどうしてもバイアスがかかってしまう。人はそもそも興味のないものは見えません。注意深く見ていても見逃してしまうことだってある。おまけに選択する前に情報を集めるときも、一種のバイアスや好みが反映されています。つまり純粋な選択というものはあり得ない。その意味で私たちは数々の情報を比較検討しても、どうしても自分の限界に行き当たってしまいます。このような自分の限界を打ち破れるのが衝動買いだとか、他人にお勧めされたものを「無条件に」受け入れてしまう態度です。

ビデオゲームを購入して、プレイし、クリアした後に何が待ち受けているか分からない、自分がどのように感じるかは全く分からない、というわからなさを積極的に肯定していくわけです。

どっちもどっちではある

自分が選び取ったものを消費する・・・というのはきわめて合理的、理性的な買い方でしょう。このプロセスで私たちは自尊心を満たします。「ああ、自分でやりとげたんだよなあ」と優越感や満足感を得られます。私たちは自分で選択する、ということを享受しています。自由に選べることはそれ自体がまた素晴らしい。

一方で急に目についたものを購入したり、他人からの情報をそっくりそのまま受け入れることは確かに不安が抜ききれない。面白いかどうかはまったく分かりませんから。しかし、自分にたりないものを補完してくれる面があるのも確かです。ある種の強制や不快感は、自分にとって未知数であることを暗示しています。そのような嫌なものを受容するときに、私たちは新たなものを見いだせます。

で、何が言いたいか。私は二つ目の態度を大事にしたいと思っています。具体的に言うと、他人からのお薦めは無条件に受け入れるようにしています。そうすることで他の人が何を考えているかが分かりかけてくるでしょうし、そこに一種の縁を見いだすことができるような気がするのです。