ビデオゲームにおける作家性と批評

 このコラムはビデオゲームにおける作家性を考え、批評がどのように広がっていくかをスケッチするのが目的である。6000文字あります。長いです。
 まず、意味があやふやになっては困るので作家性を定義する。「個人の行為の結果、ありきたりではなく独特のものが生み出されるとき、作家性がある」としておこう。すなわち読んだだけであの人とわかるような文章であれば作家性があると言える。一方、新聞のようにどこにでもあるような言い回し、文言、構成、内容でつくられた文章には作家性が見あたらないと言うことができる。

ビデオゲームにおける二重の「作家性」

 ふだんあまり意識しないものではあるが、実のところビデオゲームには二重に作家性が存在している。ひとつは作り手側の作家性である。どのようにプログラムを組むか、音楽を組み入れるか、ゲームバランスを調整するか、物語をつくるか、といったものを想像してほしい。例えば堀井雄二が関わった『ドラゴンクエスト』のようなゲームでは他のゲームには見られない言い回しがあったり、主人公が一切喋らないなどのルールが設けられている。そこに私たちは堀井雄二の作家性を見出すわけだ。
 もうひとつの作家性とは、遊び手側の作家性である。ここが小説や映画と大きく異なっている。というのも、ビデオゲームでは受け手が作品そのものに参加してゲームを作り上げてもいるからである。小説において自分が作品世界の中に入り込み、文章を変えていくことはふつうありえない。しかしビデオゲームではプレイヤーがゲームの中の物語をある程度変化させてしまう。こちらの作家性については後に詳しく見る。

作り手側の作家性は本当にあるのか?

 作り手側の作家性は自明なことのように思うかもしれないが、よくよく考えてみるとあやふやだったりする。確かに昔のゲームであれば一人や複数人でプログラムや音楽、デバッグまでやっていたので、作家性は強く出ていたに違いない。一方で、昨今の百人規模で作るゲームにおいて明確な作家性が見えにくくなってきているのも事実なのだ。

 小説が個人の創作の結果生まれ出されたものであるから作家性があるというのは容易に理解できるにしても、ウィキペディアの記事に作家性があるとは誰も言わないはずである。もしウィキペディアの記事に他の百科辞典や概説書に見られない表現があるとすれば、それは「ウィキペディアというシステムによってユニークな書き方が生まれた」と説明するべきである。または「ウィキペディアを編集する人の集団がもつ一種の特性」であるとか、「日本語版ウィキペディアを編集するのは日本人だから、日本人ならではの表現になっている」と解説する場合もあるだろう。つまり個人が消えていくに従って、アーキテクチャという制度や社会を形作る枠組みや、人がたくさんより固まってできた集団や民族という概念を用いたほうが据わりが良いのである。個人の分析に使うべき方法をそのまま集団や社会にむけて使ってしまうのは危険だ。
 であるから、少人数で作ったビデオゲームと大人数で作ったビデオゲームをまったく同じように語ろうとするとどうしても無理が生じてしまうはずなのだ。個人に帰着できる作家性があるものと、なかなか見えにくかったり無くなってしまったものを同等に批評するのは難しい。

 ついでにいれば、大人数がかかわると角が取れた製品になりがちで、語るべき箇所がどんどん取れていってしまう。ありきたりのゲームを語るのは難しいが、クソゲーほど語りやすい対象はない。そして続編が発売されても前作のマイナーチェンジであったりすることも多く、ここに到ってビデオゲームは、語るべき作家性をもった作品というよりも大量生産される工業製品のような存在に生まれ変わっている。工業製品の差異を比較したり批評しようとすると、どうしても「価格コム」や「アマゾン」の口コミレビューに溢れている値段やコストパフォーマンス中心の、買って得した損したでしか切り口のないやり方にならざるをえない。しかし私はそのような方法は間違っていると思うのだ。ではどのような手法が望ましいか、と言われてもなかなか答えがでていないのだが、強いて言えば遊び手側の作家性を生かしたゲーム実況が一つの解決策だと考えている(詳しくは後回し)。

インディーズ・同人ほど語りやすい

 というわけで少人数でクリエイターの個性が出やすいインディーズゲーム、同人ゲームほど語りやすいのである。なぜならば、批評は作家性をもとにするとやりやすく、また多人数が関わる前のデコボコした部分をもっていると尖った部分を語りやすいからである。ビデオゲームに関する優れた論考が80年代のゲームに多く、また同人ゲームはディープに語られているのも不思議ではない。
 このように考えていくとみえてくるのがインディーズゲームである。いまやインディーズゲームは数年前には考えられないほど盛況だ。やはり少人数で作っているので、個性派ぞろいのものがたくさんある。色々と語りたい人間ほどディープな世界へむかっていくこともあいまって、ゲームを語りたいと考えている人がいつのまにかインディーズゲームだけにしか集まらなくなってしまう未来がいつか来るかもしれない。そんな未来は想像したくもないが。

角が取れた大作をどのように批評するか?

 問題は角が取れた大作ビデオゲームである。作り手側の作家性が見えにくく、語りやすい尖った部分もみえないものをどう批評するべきなのだろうか。ここで二つの方法を提示しよう。ひとつは作家性に依拠することなく批評する方法を持ち込んでしまう方法で、もうひとつはゲームの実況プレイである。

 作り手側の作家性に依拠することなく批評する方法とはなにも難しいものではない。たとえば、ビデオゲームのなかでとあるモチーフがいかにして使われているかを追ってみるのがたやすい。具体的には銃である。そのゲームソフトにおいて銃がどのように使われているのかを詳細に見て、銃といかなるつきあい方をしているのか書いてしまうのである。そして他のソフトウェアを比べてしまおう。別に銃でなくて飲み物、天候、女性、思想、なんでもよい。対象のソフトウェアに明確な「制作者の意図」がなくとも、何かしらの批評は書けてしまうはずだ。ただしこのような方法はどっちかというと映画批評で使われている。ほかにもたくさんの種類がある映画批評をそのままビデオゲームにもちこんでしまうと確かに何かしらの文章は書けるだろう。しかしこのやり方ではゲームとはいかなるものか?について思索し、通過した成果が見られない。
 ではゲームシステムについて詳細に考え、構造を分析し、誰が作ったのかをまったく考えないようにしてしまう方法はどうだろうか。具体例としては、対戦ゲームの武器やキャラクターごとのバランス、必殺技やマップについての考察とを書いてしまうわけだ。ビデオゲームのもつ独特のバランス感覚を描こうとする点で、さっきの批評よりも「出来合い」ではなくなっている。おそらく、いまビデオゲームを批評しようとするとガッチリとした理論みたいなものがないため、このあたりが限度になってくるのだと思われる。が、更にビデオゲームの特性を生かした手法が存在する。それがゲームの実況プレイなのである。

ゲーム実況プレイはひとつの批評である

 ビデオゲームの実況がいかにして批評となり得るか、については金田淳子の考察「ゲーム実況、そして刺身 ゲーム実況プレイ動画についての覚書き」(『ユリイカ 特集*RPGの冒険』2009年 4月号)によって明らかにされている。以下、すこしだけ紹介しよう。
 金田によればビデオゲームは

「コントローラーを握る者(プレイヤー)だけがゲームを経験しているのではなく、それを後ろで見ている家族や友人がいる場合、そのような者も、部分的にゲームを経験している」(p186)

とされる。そして、

ゲーム実況における視聴者という位置は、ゲーム経験という意味では、実況者(プレイヤー)を隣で見ている者の位置と、それほど変わりはしない…『ゲーム実況を見る』経験は、『(実況者と一緒に)ゲームをする』経験に近似している」(p187)

と論じられ、次にゲーム実況の面白さについての核心に迫っていく。

文学理論の世界ではテクストはそれ自体では意味をなさず、読み手が解読してはじめて意味が生まれるとする考えはもはや常識の域であろうが、ゲームにおいてもまた同じことが言える」「文字列の解読だけが物語ではなく、プレイヤーの膨大な回り道や試行錯誤、失敗、リロード、親指の腹が痛むほどの○ボタン連打、さらにリロード、その合間に刺身・・・・・・こういった全体はゲームの物語生成である

つまり

ゲーム実況の面白さ…とりわけ、自分がクリア済みのゲームの実況を見ることの…面白さ…は『同じゲームだけど、別の物語』だからである」(p188)

最後に批評との関係性が語られる。

批評の役割のひとつが、そのテクストについての新たな読解の発見であるならば」(p189)、『同じゲームだけど、別の物語』を生み出すゲーム実況は批評そのものに他ならないのだ。

 以上で金田の論考の紹介を終えるが、ここには遊びとビデオゲームに関する重大な接点が隠れている。次項でそれを説明し、この短い記事を終えようと思う。

手段と目的が渾然一体となった「遊び」の楽しさを伝える実況

 「遊び」は大人の社会生活において望ましくないものとみなされている。なにも生み出さないばかりだけでなく子供じみているため、大人はやるべきものではないとさえ言われている。なぜなのだろうか。おそらく「遊び」は手段と目的が渾然一体となっているからだ。

 人は遊んで楽しいと感じるとき、「遊び」を手段にして楽しさを追求しているわけではない。逆に「遊び」を目的としてただやっているわけではない。実際のところ、遊ぶことと快感を得ることはほぼ同時に立ち上がっているのである。このように同時に「遊び」と快感が渾然一体となったとき、人は夢中になれる。没頭できる。我を忘れてわき目もふらずに遊んでいるとき、何が目的で何が手段なのかわからない、いや、遊ぶことを手段にして遊ぶことに没頭している。この様子を傍目から見ると一心不乱に遊んでいる様子は奇妙なものに映るに違いない。なにか精神に異常を来しているのではないか、或いは中毒症状のあるクスリを飲んでいるのかとさえ疑ってしまうかもしれない。病気や中毒者と外観からは区別がつかないのだ。
 また、手段と目的をごちゃまぜにしてしまう態度は、現代の社会生活においてかなり嫌われている。例えば近代人・・・ともいうべき人間像は、何かしらの目的をもって手段を適切に利用する行動する姿を理想としている。グーグルで「手段 目的 混同」とでも検索してみれば、なにやらコンサルタントやMBAやらのビジネス人のありがたい自己啓発のような意識高い発言をいくらでも拾うことができる。そこでは手段と目的の混同や転倒は避けるべきだと述べられている。確かに効率よく仕事を行ったり、現代社会で賃金を得て暮らしていくには手段と目的を的確に分けるのは必要なのである。自律した意思をもって自己の運命を切り開いていく、パワフルでバイタリティーに満ちた人間こそ望ましいとされている。だから、なんでもない遊びに熱中して非生産的な活動を行う人間は居場所がない。ただひとつ遊びが許されるのは、リクリエーションとしての遊びだけだ。つまり、仕事を行うためのリフレッシュをするための手段としての「遊び」なら手段と目的を混同しないので、やってもいいことになる。
 手段と目的が一体化してこそ意味のある「遊び」とほぼ同じ位置にある人間の活動は食事である。食事をとることによって明日生きるためのエネルギーを得ることはできるだろうし、食べなかったら食べなかったでお腹がすいて不快になってしまうので、一見すると手段の意味合いが強いように思える。しかしながら、食事をとるときは単なる栄養補給だけが目的なのではない。食べること自体が楽しいはずである。「遊び」と同じように、手段と目的をごちゃ混ぜにしてただ目の前にある食事を口に運ぶことこそ、食べる行為そのものである。忙しい現代人のための食事と銘打った加工食品の、単調で味わいもなにもない味を想像してもらいたい。食事に熱中させないように作られた、ああいう時間を節約するための食品に食べる楽しみなどほとんどありやしない。

 ビデオゲームにおいての批評というと、どうしてもゲームをやり終わった後にクールダウンをして、時間をさかのぼるように言葉によってゲーム体験を紡ぎなおさなければならなかった。遊んでいるときの熱中している様子や試行錯誤の過程はほとんど無視されてきたと言っても良い。しかし、ゲームの実況プレイはそれを変えた。遊んでいるときの興奮や錯誤といった、文字に表しにくいものをそのまま伝えてくれる。ビデオゲームは基本、「遊び」である。「遊び」は手段も目的も区別がつかない遊びの瞬間にこそ本質がある。その瞬間を的確に他者へ伝えるゲーム実況の即興性にはゲーム批評の新たな地平が開けていると言える
 『孤独のグルメ』という漫画をご存じだろうか。もともとは90年代中頃に連載されていた漫画で当時はそれほど人気があるわけでもなかったのだが、インターネットや口コミによって文庫版がロングセラーになった。サラリーマンが一人で飲食店に入っていき、ただひたすら食べて、様子を実況するだけの漫画である。これと有名なグルメ漫画の『美味しんぼ』は対照的だ。『美味しんぼ』は食に関する薀蓄を語り、好き嫌いを披露する。
 そしていま、食べログにおいては『孤独のグルメ』のような「実況」と『美味しんぼ』のような「薀蓄」の勢力が入り乱れているらしい。食べる瞬間の魅力を伝えるのか、それとも食にまつわる話を伝えるのか。どちらが正解というわけではない。どちらもあって良いはずだ。ビデオゲームにおいても、同じことが言えるだろう。

 

 

注)批評とはいかなるもなのなのかは永遠に解決しない問題ではあるが、今回の記事では「新たな解釈を生むもの」として扱った。きちんとしたビデオゲーム史をつくることは目的としていない。
また、ゲーム実況プレイによってすべての批評が駆逐されるわけではなく、いままで通りの批評とは両立するものだと思っているし、なによりもっと洗練されるべきだと考えている。
最後に『PLANETS VOL.08』の食べログ特集における『孤独のグルメ』と『美味しんぼ』の対比、『PLANETS VOL.07』(どちらも第二次惑星委員会発行)のビデオゲーム特集を再読してわき上がったイマジネーションをもとにこの記事を書き、いくつかの考えや用語を引用していることを付記しておく。

「不当に無視されたゲーム文化」を「内部から告発」できたのか?

古い雑誌を読んでいたらビデオゲームに関するコラムを見つけた。雑誌の後ろのほうに位置された投稿欄というべきか、エッセイと言うべきか、そこに1985年人が見たファミリーコンピューター像があった。

 任天堂のファミリーコンピューターが四百万台売れ、カートリッジ式のゲームが一本当たりで、最高百万本も出ている。一台のゲーム機に四人が触れ、一人五時間ゲームをプレイしたろして、単純計算しよう。のべ二千万時間がゲームのために費やされていることになる。チップに書き込まれたプログラムの単純ループ、またはサブルーチンへのコールが、ファミリーコンピューター内部でさらに一秒間に何メガヘルツという猛烈なスピードで繰り返される。
 たしかに画面に映る絵柄は塗り絵や簡単な書き割りアニメーションかもしれない。内部機構を絶対に人目にさらさないディズニーランドのようなエンタテイメントからいえば、ファミリーコンピューター・ゲームの演出は、まだまだ幼稚なものに見えるだろう。
 しかし、小学校の教室で、七割以上の子供が、ファミコンで遊んで充血した眼をパチパチさせながら、寝不足気味の授業を受けている現実は、この塗り絵機会に少年達を熱中させる何かがあることをはっきり物語っている。僕はそれを”不気味である”とか”ハイテク時代の機会で遊ぶ少年”とか”自閉症”であるとかの、大人の目から見たアタリマエの話にすりかえたくはない。
 ファミリーコンピューターの価格は約一万円、ディスカウントショップに行けば一万円。安価なメカの普及について、そして子供達がそれを夢中にプレイする光景について、誰も、何も、まともに発言しようとはしないのは何故だ。発言を避けるのはらまだいい、文化人や評論家の多くはその図を見ようとしない。不当に無視されたゲーム文化のなかで、10代未満の原体験が形成されていくのに、僕ははがゆさを感じながらも、どうにもできない。次の世代からの、クリアランスな発言―メカニズム内部からの告発にも似た、救世主の声を、僕は待っている。
野々村文宏「メカニズム内部からの告発」 『ユリイカ 増頁特集*未来派 モダニズムの総決算』青土社 1985年 12月号 p278

ところでこの短い文章を書いた野々村文宏さんは当時新人類と呼ばれていた若者だった。80年代初頭の言論界ではなにが議論されていたのかはあまり知らないのだが、今風に言うと宇野常寛や濱野智史みたいな存在のようだ(年齢からすると荻上チキ、古市憲寿、後藤和智なんかが近いかもしれない。ゲームなら井上明人か)。ちょっと前なら東浩紀か。要するに、若い世代からの生の声を広く一般にとどけたり、流行する現象をもとに世評や日本について深く語ろうとする人たちである。

私たちは野々村さんが求めていた声をだせただろうか。幼少期かビデオゲームと共に育ってきた人間としての声を。そして、ビデオゲームを”まともに”語れているだろうか。

RPGの感性とFPSの感性

RPGさんとFPSさんがひとつの対戦ゲームについて会話をしている。

RPG「対戦ゲームって、がんばってもがんばっても報われないことがあるんだよなあ」
FPS「確かにプレイヤースキルの差ってのはあるね」
RPG「こっちはずいぶんやっているのだけれど、そんなに階級が高くない相手にムザムザとやられるのはねえ。ちょっと嫌だなあ」
FPS「でも対戦ゲームだから仕方がないでしょう。上手い下手の差をどう補うかを考えるところもゲームのひとつですよ。FPSなら照準を合わせる力が足りなければ立ち回りでどうにかすることもあります」
RPG「うん、そうだよ。けれども長くやってきたことへの報酬がほしいんだ。金色の武器が手に入るとか、迷彩柄の衣装が手に入るとかではなくて、高階級専用の強力な武器はいいかも。そこまでゲームバランスを崩さない程度に導入するの」
FPS「そうすると公平性が失われてしまいませんか?多少のことはいいかもしれませんが・・・」
RPG「高階級だけしか使えない武器が露骨すぎるんだったら、RPGのように経験値やお金を使ってカスタマイズの幅が広げていくようにすればいいんじゃないかな。これならモチベーションの持続にもなると思う」
FPS「しかしやはり初期状態ではゲームすべてが楽しめない点が気になります。不公平感が残っていますよ。長く遊んだプレイヤーには蓄積された技術と知識に加え、システム側からレベルアップで強さにゲタが履かされているではありませんか。上手くなっていく過程は知識や技術といった自分の中に取り込んだものに限られるべきです」
RPG「どうにかしてゲームシステム側に上達の経緯を組み込めないかな、と思ったんだけどね」
FPS「シングルプレイなら分からないことでもないですね。武器や能力の適度なアップグレードは長時間の退屈なプレイへのほどよいアクセントにもなりますから」
RPG「対戦ゲームにも多少は取り入れた方が遊びの幅も広がると思うんだけどなあ。それでいて多少は強くなれば、よしって感じで」
FPS「難しいですね。新しい戦術の開発、マップの探索、コンボの探求、そういったものでじゅうぶんだと私は思うのですけれど」
RPG「漫然と遊んでいようとも、単純にプレイ時間に比例するようなものがあったらなあ」
FPS「いわゆる羨望を集める対照としての衣装やロゴといったものではなく、スコアや結果に直接関係するものですか。何度も言いますが、それはやはり・・・」
RPG「認められない?」
FPS「ええ、度が過ぎると対戦ゲームではなくなります」
RPG「そうかあ」

後日、RPGさんとFPSさんが新規プレイヤーについて話をしている

FPS「あたらしくゲームを始めた友人がなかなか遊んでくれませんね。シングルプレイは楽しくやっているようだけど、対戦は無理だと言っています」
RPG「ああ、対戦だとすっごく上手い人が多いからねえ。しばらくはやられ続けられる羽目になっちゃう」
FPS「そうなんだ。だけど、弱い人もいれば強い人もいるのが多人数対戦ゲームも良さでもある。相手の強いプレイヤーといかにして戦わずに、弱点となる穴をつくかを考える戦術もあるんですよ」
RPG「一理あるけどさ、そんなことしていたら初心者は寄りつかないよね。初心者専用のサーバーを用意するのもいいよ。でも階級が上がってしまったら意味なくなってしまう。だったらいっそのこと、初心者や階級を低い人を倒してもスコアに結びつかなくなるようにしたらどうだろう?初心者狩りをしてもちっぽけなポイントしか手に入らないようにすればいいんだ。逆に高い階級やレベルの人は逆に倒されたらたくさんのポイントを蒔くようにする、と」
FPS「それだと階級が低いプレイヤーはどんどん前へ出て行って、階級が高いプレイヤーは迂闊に前に出られなくなってしまいませんか?」
RPG「ふっふっふ。以前に言っていた高レベル専用の武器を用意したら釣り合いが取れると思わない?」
FPS「なるほど。高い階級であれば強い武器を手に入れられる代わりに、相手からすると恰好のポイントを得られる餌となる。そういうわけですか」
RPG「ついでにいうならスコアが低かったり階級が低かったりしたら、強力なアイテムを使いやすくするというのもいいかもしれないよね。実力差を縮めて接戦を作り出すようにしたらば白熱するでしょ?」
FPS「ある程度の公平性を犠牲にしつつも、最終的なスコアやの差をでにくくするようにするわけですか」
RPG「まるで機会の平等と結果の平等みたいだよ」
FPS「はっはっは。ゲームの話をしていたらなぜか経済や政治みたくなってきましたね。ですがそうなると一つ見落としていることがあります。今まではゲームシステムの話でしたが、その中で動く人のことも考えなければなりません。もし高いレベルの人が報酬と敵に与えるポイントを比較して割に合わなくなったと考えれば、新しくアカウントを作りなおし続ける可能性があるでしょうね。はたまた逆に、高階級のうま味がありすぎるとすれば、新規参入者は初めから絶対的な差をまのあたりにしてやる気を失ってしまうかもしれない。そのあたりの調整は驚くほど複雑になってしまいませんか?」
RPG「どうにかするのが、ゲームクリエイターではないかな、とは思うけれどね。でもゴチャゴチャするだろうなあ。ちょっとした調整の加減でクソゲーになったり良ゲーになったりしそうだ」
FPS「そう、だからこそ調整するための余地を無くして、できるだけシンプルに作ることが求められると思うのです。考えるべき要素が少ないほどバランスのさじ加減はととのえやすくなる」
RPG「となると、システム面には何も手を加えていなくて、実力差だけがある世界にならない?」
FPS「まあ対戦ゲームとはそういうものでしょう」
RPG「そうかなあ。あ、話がループしてきたぞ。ずっとやっていても一向に上手くなれない人や、新しく始めた人への対処がなくなってしまう。結局どうすればいいんだろう」
FPS「公平さをできるだけ維持したまま、それでいて実力が低い人への配慮をするシステムは永遠の課題でしょうかね。私は何もいじらなくても良いとは思いますが、このままでは先細りになりかねないという心配はあります」
RPG「実力がない人をブーストするシステムを実装すると反対に、実力のある人のモチベーションが下がりかねない。またその逆もしかり。これは一朝一夕では解決できない問題だね。もとめられるものは製品によってもちがうだろうし、クリエイターによって考える方向性も異なるわけで、ひとつひとつのゲームをつぶさにみていくしかないのだろうね」

「FPSやTPSは頭の良い人のための頭を使うゲーム」なのか?

Kotakuの記事に「なぜ人は敵を銃で撃つゲームが好きなのか?」だというコラムが載っていた。以下引用。http://www.kotaku.jp/2012/12/why_we_like_to_shoot.html

このコラムの結論は「(あらゆるゲームジャンルの中で)最も素早く直感的な判断が必要とされ、その判断に瞬時に結果が示されるジャンルである」からだとされている。ここにはまあそれなりに同意しておくのだけれども、コラムで引用されている以下の発言には批判を行いたい。
「ほとんどの人はシューティングゲーム(FPS)をわかっていない。しかも率直に言うと、ほとんどのシューティング開発者もわかっていないと思う。シューティングゲーム(FPS)は頭の良い人のための頭を使うゲームだ。
確かに仕組みは簡単だし、手軽に遊べるから気の短い人やあまり時間のない人にも都合がよく、実に幅広い層の人に受け入れられる。でも実際のシューティングゲーム(FPS)はプレイヤーの頭の良さを必要とするものだ。
シューティングゲーム(FPS)と比べて、ターン制のゲームで次の動きを考えるのにそれほど頭を使う必要はない。なぜなら考える時間があるからだ。息をつくヒマがある。考える時間があるほど、より良い決定を下しやすい。ターン制のゲームを馬鹿にしたいわけじゃないし、そんなことをする方が馬鹿げている。
ターン制でもプレイヤーの考える力はもちろん必要とされる。ただ個人的には、ターン制でのプレイヤーの頭の使い方は主に論理か数学的な考えに基づくもので、シューティングゲーム(FPS)が要求する知能ほど刺激的ではないと思う。
シューティングゲームを過小評価する人たちは、よくこんなことを言いたがる。「シューティングゲーム(FPS)なんて、ターゲットを狙ってボタンを押すだけじゃないか」。質の悪い開発者もそう考えているふしがあって、だから彼らの作るゲームはその程度なんだ。
たとえばチェスはわかりやすいゲームだけど、「チェスはシンプルで手軽に遊べるから、頭の悪い人がやる頭の悪いゲームだ」なんて言われることはない。それがシューティングゲーム(FPS)だと、人はいつもそう言いたがる。
シューティングゲームで必要とされる思考力をここに並べてみる。
論理・数学:シューティングゲーム(FPS)ではリソース管理が重要。残弾数はどのくらいか? 今後どれだけ消費するか? 現在のリソースを売ることで購入できるアップグレードは?
空間認識:自分と自分以外の物の位置関係は? 敵はどこから撃ってくる? 敵はどこに向かって動いている? 自分はどこに向かう? どこに向かって撃つ?
対人:自分のいる方向に攻撃してこないかどうやって確認する? 敵を自分の射程範囲に誘い込むにはどうしたらいい?
身体・動作:現在の位置関係ならエリア内でどう動くべきか?
さらに、これらすべては即時に判断する必要があるため、リアルタイムのプレッシャーも加わることになる。
右エリアに行くのをやめるか? 今の残弾数は? あいつを射程に呼び込むにはどうする? さっきいなくなった敵は奇襲をかけてくるんじゃないか?
ゲームのプレイ中、常にこれらを考え続ける必要がある。確かにシューティングゲーム(FPS)は誰でも遊べるが、上級者になるには相当の思考力と精神的な鍛錬が必要とされるのだ。
シューティングゲーム(FPS)は間違いなく最も知能的なゲームの一種だ。僕はコンボの組み合わせを覚えたり、RPGで次の一手をじっくり考えたりすることに興味はない。それは僕の知能をあまり必要としないからだ。
だがシューティングゲーム(FPS)は? すごく頭を使う。頭の良い人のための頭を使うゲームだ。素晴らしい。」

試合では思考力だけではなく、無意識にも動いているはずである

(おそらくタクティカルではない)シューティングゲーム(=FPS)で必要とされる思考力にはいくつかのものがあると書かれ、「リソース管理」「空間認識」「自分と味方との連携や敵との駆け引き」には相当の思考力が必要だとされている。なのだけれど、ここがちょっとおかしい。というのも、瞬時の判断が要求される試合ではいろいろと考える暇なんてものはないからだ。試合中は考える暇もなくゲームが進行せざるを得ない。いちいち考えていたら、考えている間にやられてしまう。格闘ゲームでもFPSの試合でもテトリスの上級者モードでも、柔道剣道すべて同じである。

実際の試合では考えることなく、まず先に体が動いている。要するに大脳を経由することなく目から入った情報がそのまま神経を刺激して筋肉を動かしている。体を動かさないときでも視覚情報はすべて感覚的につかまれている。細かい数値計算なんてのもなかなかできない。

ではなにを元に動いているのかというと「練習の成果である。引用記事のいうところの思考力ではない。私たちの体は練習を行うことによって、動きや感覚を体に覚えこませることができる。とてもわかりやすいのが野球やゴルフなどの素振り、または空手の型である。空手の型は日常生活の動きとはまったく異なるためなかなか身につかない。そこで一挙手一投足すべてに意識を集中し、型をなぞる練習をする。はじめのうちは頭の中で型の動きをトレースすることがむずかしいが、繰り返し練習していくうちに意識することなく型をなぞれるようになる。そしていつしか頭のなかでは完璧な型を行う自分の姿がイメージできるようにまで上達する。野球のバッティングや投球練習でも同じことがいえる。プロ野球選手がフォームを改造するとき、必ずフォームを「固める」ために素振りやら投げ込みを行う。この「固める」という作業にこそ練習をする意味を見出せる。

更に練習が高度になってくると、今度は練習で身に着けた型を組み合わせたり実戦とほぼおなじような形式で行う。そこでは、野球ならばピッチャーの投げるボールを打つといった複雑な状況判断と身体動作が必要になってくる。最初のうちはうまくいかないのだが、練習を続けていくうちにある程度は上達していくはずだ。ここでは単に体を動かす動作に加えて、目から入ってくる情報とが関連付けられている。

以上のような練習を踏まえた上でいざ実戦を行うと、まぎれもなく体は動いてくれる。しかも無意識にうごいてくれる。練 習によってさまざまな場面と状況を自分の中に覚えこませ、意識することなく最善の解を出せるようになったとき、未知なるもの対しても適切な動きが出来るよ うになっているのだ。違う言い方をしよう。思考しなくても良いように体にいくつもの動きを覚えこませなければ、体は瞬時に動いてくれないのだ。

練習の果てにあるものは・・・

FPS の話題に戻る。FPSでも同じことが言える。練習や気軽なゲームで立ち回りとか照準を合わせる能力を磨いていく。そうして最初はぎこちなかった動きも無駄 のないキリリとしたものに変わっていく。練習では秘密の作戦や秘蔵の攻撃方法も行うだろう。いつしかくる実戦では、練習によって身につけた作戦や攻撃が威 力を発揮する。

はっきりいって試合では練習で出来なかったことが突然出来るようにはならない。練習でできることしか試 合ではできないのだ。しかも一瞬の判断が命取りとなるため、練習によって体に覚えこませた動きしかできない。しかし、練習によって身に着けたことが多けれ ば多いほど、まったく予想だにしなかった驚異的なプレーも生まれてくる。つまり無意識にできるようになった動きがいくつも組み合わさり、本番では自分の意識を超えたプレーへと昇華する場合があるの だ。これこそよくいわれる「無我の境地」であり、「考えるな感じろ」の世界である。絶対に失敗することの出来ない緊張感の中、歓声はやんで周りの風景は姿 を消し、体が動くままに動く。そんな感覚をもったことはないだろうか?ピアノの発表でもバレエの公演でも演劇でも、何かが乗り移ったかのように体が動く感 覚に覚えはないだろうか?

ところで体に覚えこませたものは一体なんだったのだろうか?あえて言うの ならば「観念」である。型だろうとなんだろうと、とにかく最初は頭の中で必死に思い浮かべながら身に着けなくてはならない。また、日常生活で身につけられ ない動きはすべて観念的につくられたものでしかない。しかし人間は不思議なことに、実体のない思考回路を体に覚えこませて文字通り体現することができる。 体はときとして心と一体となりうるし、また心より先に動き出し、心よりも柔軟なのだ。

ソーシャルゲーム『アイドルマスター シンデレラガールズ』について

 ソシャゲはクソゲー? 

今回は『アイドルマスター シンデレラガールズ』というソーシャルゲームについて話をします。ソシャゲはゲームなのかどうか、クソゲーだろうか、そういった方面で語られることは多いのですけれども、この記事ではゲームの一種として扱っていきます。

まずはソシャゲの仕組みをおおまかに説明しましょう。ソシャゲの形式には数多くあれど主流は「カードを育てて戦わせる」カードゲームのようなものです。数多くのカードがあり、そのカードごとに強さが決まっていて、レベルを上げることで更に強くなる、そいった具合です。ただしゲームのルールはいたって単純に作られており、トレーディングカードゲームのような複雑な効果はありません。逆に言えば戦略性皆無のトレーディングカードゲームと表現できるでしょう。

ということはトレーディングカードゲーム的な面白さがソーシャルゲームにはあるのです。トレーディングカードゲームの面白さは大別すると「ゲームで遊ぶ戦略性」と「カードを集める楽しみ」のふたつあります。ソシャゲに戦略性はありませんから、「カードを集める楽しみ」が少なからず受け継がれていると言えます。

 自慢する、という行為 その1 

ではカードを集めてどうするのでしょうか。トレーディングカードゲームをやっていた方はわかると思いますが、カードにはレアリティというものがあります。つまり封入率が低いレアカード(珍しいカード)と、封入率が高いカード(コモンとかノーマルと世呼ばれるカード)が混在しているのです。そこで、例えばレアなカードを引き当てて喜んだり、友人などにレアなカードを見せて自慢したりするわけです。

レアカードは能力や効果が強く設定されていたりあるいはデザインが独特なものであったりするわけで、自慢するだけでなく実用価値さえ出ます。もし実用価値がでてくればカードゲームを遊んでいる人はこぞって手に入れようとします。するとどうなるでしょうか。カードを取引する市場において、レアカードの需要があがり、さらにレアカードの価格(=価値)はあがります。価値が高いカードというのは市場において供給量が少ないことを意味しますから、珍しいレアカードが更に珍しくなってしまうのです。となると、他人に自慢しがいがあるというものです。

トレーディングカードゲームの販売会社はこういった構造の商品を定期的に売り出し、新たなレアカードを生み出します。カード愛好者は新しく発売されたレアカードをこぞって手に入れようとするわけです。新しいカードというのはいわば、他の誰も手に入れてない超レアなカードですよね。相対的にレアリティがものすごくたかくなっているわけです。

ソーシャルゲームにおいても同じような構造になっています。大量に排出されるカードは弱くて実用価値はありません。一方でレアリティが高いカードは強く、またデザインも秀逸なものになっています。そして新しく追加されたレアなカードをいち早く自分が装着すれば、他人への自慢となるのです。

 自慢する、という行為 その2 

ところでソーシャルゲーム独特の自慢行為がもうひとつあります。むしろこっちのほうが重要です。アイテム課金型オンラインゲームにもいくらか共通する要素と言っていいでしょうか。それが「重課金者への羨望」です。

レアなカードは高いリアルマネーで取引されているからヘビーユーザーはすごいといわれる、のではありません。ソーシャルゲームやアイテム課金型オンラインゲームでは、「ゲームの進行を有利にするためのアイテム」が販売されています。そして重課金者は「ゲームの進行を有利にするためのアイテム」を無尽蔵に使っているように他のユーザーからは見えるのです。ここに一種の羨望が生まれます。あまりお金をかけていないプレイヤーが群がっても敵いっこないほどの成績を一人で出すプレイヤーに、多くの人の目注がれるのです。ゲーム側でもトップランカー(トッププレイヤーのこと)やランナー(無尽蔵にアイテムを使うさまを「走る」と形容する)の存在がバッチリとわかるように工夫されています。

もちろんお金を大量につぎ込んでいる人を見て「あれは馬鹿だな」と嘲笑するむきもあるでしょう。が、私がアイテム課金ゲームやソーシャルゲームをやった限りではそういう意見をあまり見かけません。むしろ「アホやな~」と生活を心配しながら褒めている人が多く見られます。お金を使いすぎた人も「自虐ネタ」として笑い飛ばしたりすることもよくあります。

ともかく。ランナーや廃プレイヤーになることは一種の快感を伴います。他人からの視線はプレッシャーにもなり得ますが、病み付きにもなってしまうのです。

 一押しユニット・アイドルのアピール 

ここからはソーシャルゲーム一般ではなく、焦点を『アイドルマスター シンデレラガールズ』に絞っていきます。

『アイドルマスター シンデレラガールズ』はごく普通のソーシャルゲームのシステムを使っています。アイドルを手に入れ、育て、バトルさせていくだけです。ゲームとしてはなんの変わったところもないと言えます。

しかし使われているキャラクター達の良さが他のゲームとは異なっています。統一感のある絵柄に加えてアイドルの種類が豊富で、同じようなキャラクターがいません(実際は多少なりともいる)。割と健全に描かれてもいます。まあ要するにかわいく作られているのです。

であるからプレイヤーとしては、能力値の高いアイドルを他人にみせようとすることもありますが、自分の一押ししているアイドルをわざわざ他人にみえるような位置にもってくることも多くなるのです。つまりレアでなくても自分がプロデュースしたかったり他の人に知ってもらいたい場合、わざわざリーダーとするのです。そして一押しアイドルが例えば新カードとして追加されたとき、もちろんプレイヤーは新しい一押しアイドルを手に入れてリーダーにしたり、他人と話題にするわけです。とくにレアリティが高いアイドルが追加されたときに一押しアイドルを誰よりも早く手に入れれば、「さすがです」「おめでとう」など、反応があったりします。特に上位ランカーはそれが顕著です。

ではなぜこんなことになっているのかというと、元のゲームである『アイドルマスター』が多いに関係していると思われます。つまりアイドルマスターの世界を壊さないようにキャラクターが作らていく。ユーザーもアイドルをプロデュースする立場ですので、お気に入りのアイドルやユニットを「押す」わけです。単純に戦闘を行って上位を目指していくゲームの体裁をかぶってはいますが、その中身は最初から「好きなキャラクターを愛でるゲーム」でもあったのです。

 キャラ付け・物語をたのしむ 

もうひとつはキャラ付けの重要性を指摘しておきましょう。現在のトレーディングカードでは当たり前のようにキャラ付けを行い、裏では物語のようなものを暗示させています。しかし昔からそうだったわけではありません。かつては野球選手などの有名人を扱ってキャラ付けは行われてはいましたが、物語世界まで作るようなことはありませんでした。そんな中、1985年にトレーディングカードのビックリマンが「悪魔VS天使」のシリーズを売り出します。このシリーズは独特の設定を持ち込んで物語性を押し出し、更には先ほど述べたレアリティの操作を加えて大ヒットとなりました。ここからわかるとおり、現在のトレーディングカード形式のものはキャラ付けと物語性がヒットに不可欠なものとなっています。

『アイドルマスター シンデレラガールズ』も「キャラ付けと物語性」をきちんとなぞっています。キャラ付けについては100人以上のアイドルがかぶらない属性をもっている点を指摘できます。では物語性はどうでしょうか。実は『アイドルマスター シンデレラガールズ』内での物語は登場人物の台詞が成長をしていくこと除きあまり語られていません。ではどこにあるのでしょうか。これは物語というよりももっと大きな、アイドルマスターの世界に関係しています。『アイドルマスター』はプレイヤーがアイドルをプロデュースするというゲームでした。『アイドルマスター シンデレラガールズ』でも同じようにアイドルをプロデュースします。つまりどのような世界になっているかは、すでに、原作ゲームで作られていたのです。であるから『アイドルマスター シンデレラガールズ』の世界が語られることはあまりありません。原作ゲームと同じだからです。

 二次創作の楽しさ 

『アイドルマスター』はゲームの魅力もさることながら、二次創作によってブームとなりました。とりわけニコニコ動画を中心にしてブームが起こり、二次創作界隈は大いににぎわったといえるでしょう。

では『アイドルマスター シンデレラガールズ』はどうなのでしょうか。ニコニコ動画ではあまり人気があるとはいえませんが、ピクシブは大いににぎわっていますし、2ちゃんねるのスレッドはとてつもない速度で書き込みが行われています。「ゲームやるより語るほうが面白い」とはよくいったものです。そしてピクシブや2ちゃんねるで語られた話題がいつのまにか公式に悪影響を及ぼし、新しいカードのせりふや設定にうっすらと反映されることがあります。

こういった二次創作の活発さやゲームを語ることへの間口の低さ、あるいは良きにつけ悪しきにつけ二次創作から本編への影響があるというのは何も『アイドルマスター シンデレラガールズ』だけではなく、そもそも『アイドルマスター』から受け継がれてきた性質です。

 終わりに・・・ 

以上見てきたことを整理してみましょう。ソーシャルゲームはビックリマンといったトレーディングカード遊びのような収集の面白さがあります。そして集めたカードを見せたり、ゲーム内のイベントで有料アイテムをがんがん使うことで他人に自慢することができます。このような自慢から生まれた快感はアイテム課金オンラインゲームでも見られる要素でした。そして『シンデレラガールズ』は他人と戦うだけではなく、アイドルを愛で、みんなで語り合い、二次創作も時として行うという『アイドルマスター』時代からの特徴ももっています。

ということはソーシャルゲーム(『シンデレラガールズ』)はよくよくたどってみるといろいろなものの集合体であることがわかるとおもいます。

 

ではソシャゲの大元はなんなのでしょうか?Mob WarsやMafia Warsが原点だと思われます。詳しくは4gamerの記事を参照してください。http://www.4gamer.net/games/085/G008544/20100205058/

読んでみれば、誰でも持っているような機器を介したオンラインを前提とし、ある程度コミュニティが出来上がっているところに、毎日接続させるようなゲームシステムを盛り込んだものがソーシャルゲームの本流だというのがよくわかると思います。