自分の文章がヘタクソだ

自分が感じたことをいかに相手に伝えるか。それが批評だと思います。自分が感じた心の動きを描写しても良い。題材の分析を通して自分の思いを伝えても良い。

 

批評では文章の「上手さ」が重要です。上手かったら中身がなくとも読ませることができる。中身のなさを「上手さ」でカバーできる。しかしそんなことができる人は滅多にいない。「上手い」文章はなかなか生まれない。

 

着眼点、鋭さも「上手さ」と両立すべき点でしょう。たとえ下手な文体でも書いてあることが面白ければ、人は興味をもってくれる。読んでくれる。下手な言葉でも心理を突いた言葉ならば人を動かします。そこに技巧だけでは到達できないものがあります。

 

以上ふたつが揃っているのが優れた批評に他なりません。

 

 

とまあ書いてきましたけれども、文章の構成において私が犯しがちな欠点をひとつ見つけました。「だ」「である」調の文章で主語に「は」を連発する傾向です。戒めとして書いておきます。

 

どうして「は」を使うのか(「私は」とか、「FPSとは」とか、)。何も大した理由はありません。「は」で始まると簡単なんですね。文章を書く前に、とりあえず「私は」を書いておく。そうすると次に書くべき文章が見つかりやすくなる。だから楽なんです。先に主語を作ってしまうとかなり楽になる。

 

しかし、「は」から始まる文ばかりだと単調になってしまいます。論理的に文法的に正しくとも、リズムが悪い。「は」をなるべく使わない文章のリズムはウネウネとしている。ウネウネとしているから読んでいても緩急を感じられる。

 

単調な文章とは起伏がない文章です。同じような文体がひたすら続けばそれだけ飽きる。文章が立体的に見えないのです。一方で優れた文章は文字が立体的に浮かび上がる。ダメな文章は文字が二次元のまま。二次元で書かれた文字を三次元に翻訳するためには、リズムが必要です(色で書き分けても良いのですが)。

 

そろそろ「レビュー」記事には書き方の変化が必要かなと思います。どうにもこうにも「は」が目立ちすぎる。

「不確実性」の面白さ

前に『ケイン&リンチ2』のレビュー・解説で書いたこと(歴史事実とフィクション・歴史物語の違い)とかぶる内容。

なぜスポーツを見るのがやるのが面白いのか、というのは、そこに「不確実性」が含まれているからだと思う。やっていると次に何が来るのかが分らない。テニスでボールがどのように打ち返されるのか、サッカーで敵がどこにくるのか、そういうのは経験的には予測できても、最後の最後は予測できない。観戦も同じことが言えます。洗練された選手の動きを見て感激するとき、観戦は楽しくなります。ですが、もっと違う楽しみ方があるんです。選手の動きを予測し、自分で分析し、その後に選手がどのように動くかを考える方法です。これはルールを知らなければできないという意味で、やや高度な楽しみ方と言えます。

スポーツ観戦の面白さは、小説や映画を読む楽しさとはやや違います。なぜならば、小説や映画は何が来るのか既に作られているからです。物語を作ることは因果を生み出すことになります。しかしスポーツ観戦は前述のとおり、そこに運命づけられた世界はない。ですから選手が何を行うかを予想する楽しみが生まれます。先が見えないから予測に面白さが生まれる。「次に選手は何をするのか」を考えることが楽しさになるのです。スポーツは小説のようにきちんと作られた、言い換えれば因果がはっきりとした世界ではない。そこがスポーツ観戦独特の面白さを生み出します。

ビデオゲームにおいても、上記の図式は当てはまります。例えば、シングルプレイでストーリー性の高いゲームは、小説のような楽しみ方をするのがいい。そこは因果がある世界だから、因果を紐解くように遊べぶと面白くなるかもしれないからです。予定説で作られた世界と言っても良いと思います。一方で「不確実性」が高いシングルプレイもあります。例えば敵のAIを強化して様々に動くアクションゲームや、イベントが突発的に起るゲーム。こうすれば予定説の世界にはならないわけです。とはいえ現時点では(意欲的に取り組んだゲームはあるものの)現実性がない。

やはり「不確実性」を考えるのなら対戦ゲームがうってつけです。相手が何をするか分らない人間だからこそ、そこに不確実な未来が生まれる。そういった「わからなさ」に対処するから面白い。慣れたゲームが面白くなくなってしまったり、つきつめて作業へと行きつくとゲームが面白くなくなる理由も、「わからなさ」がなくなってしまうからだと考えられます。

先が分らないことは厄介だけれども、逆に魅力にもあり得るという話です。

レビューに関すること

自分が何を書いているのかを少し明確にするため、メモ代わりに残しておきます。

ウェブサイトにアップロードしているレビューはなるべく「そのゲームをやったことのない人」向けに書いています。例をあげるなら、『プリンスオブペルシャ』のレビューでは『プリンスオブペルシャ』をやったことのない人向けに、そしてシリーズものならば「シリーズをやったことのない人」でも読めるように書いているつもりです。ですから、レビューでは何度も同じことを述べています。違うゲームのレビューであっても同じような事を言っています。そのせいか特に続編ものでは似通った内容になることが多い。複合的に考えさせるような構造にはなっていません。つまりAのレビューとBのレビューを読んで真実が浮かびあがる、というような構成にはしていません。ひとつのレビューはそれ自体で完結しています。

次にレビュー記事にある「紹介」と「レビュー」のちがいについて。

「紹介」はゲームの大まかな輪郭を浮かび上がらせるようなことや、開発会社の情報などの雑多なことを書いています。飛ばしても構いませんが、「レビュー」の内容は「紹介」で触れたことを前提に書いています。「レビュー」で何言っているか分からない場合は「紹介」を読むと良いかもしれない。

「紹介」と「レビュー」自体がかなりダブっていることもあります。なぜかというと、「紹介」で述べたことを更に詳しく見て、理由付けや更に深く論じるために被らせています。

ゲームを一度やり終えた人には退屈なサイトに思えるでしょうね。やればわかることが書かれていますから。ただまあ卓越した文章力や奇抜な思考をもつ人は、誰向けに書いてもおもしろいものができあがるとは思います。つまらないのは私の能力のなさが理由ということで。

余談ですが、私の書く文章が物足りないと感じたのなら、思った時点で文章を書いてみてはどうでしょうか。ゲームをやって論評することぐらいだれでもできますから、さほど手もかからずに自分の満足できるものを書けると思います。

書いた文章をある程度放っておく

ヘミングウェイは原稿を書き上げた後に、貸金庫に預けていた。そして締め切り日が近づくと金庫から取り出して読み直しながら改稿を施したらしい。

文章を書いているとヘミングウェイの行動には理があると感じる。文章を書き終えた当初は自信満々で「これ以上の文章はない」とさえ思ってしまう。ところが一夜明けて読み直してみると、昨日は完璧に見えた文章の綻びが嫌というほど目に入ってくる。数日後、数ヶ月後に文章を読み直してみると更に欠点が分かる。

書いたときの自己が自分の中からいなくなり、新たな自己になっているからこそ、時間が経ってからの読み返しは意味があるのだろう。自分で書いた文章は最高の美文である。しかし他人の書いた文章は最低の悪文である。時を経た自分の文章は、他人の文章と同じだ。

私の場合はと言うと、ゲームのレビューはなるべく一夜明けてからアップロードするようにしている。とはいえ数ヶ月経ってから見直してみると変なところがたくさん見つかる。「何でこんなことを書いたのか」がまったく理解できないような恥ずかしい文章もこれまた多い。論理が明快でない、理解しにくい、くどい文章がたくさんあることに気づく。いま、私がウェブサイトの文章を全面的に見直しているのは、過去に書いたダメな文章をなるべくよりよいものにするためでもある。もちろんデザインの改造という意味もあるけれども。

フェイスブックへの私見

約1万8500円の超高額ゲーミングマウスが発売開始


いくらなんでも高い。ゲームを遊ぶよりも、ツールを集めるのが趣味の人にはいいかもしれない。

資格試験をやらずに参考書を買いあさり、仕事もしないのに自己啓発書やライフハック系の本を読み、文章を書かないのに読本を集めるのも、意外と面白いものです。

 


 

ゲームとはあまり関係ない話

 

フェイスブックについて。

 

フェイスブックは経歴が妙な力をもっている。学歴とか性別とか、そういうものが利用者側に見えてくる、嫌でも。ツイッターとかブログがある程度インターネットに潜む匿名性やフラットな感じを生かしているのに対して、フェイスブックは実名性を重視している。むしろフェイスブックは「誰であるか」を特定するためのツールと言って良いだろう。これのおかげで、フェイスブックでは一種のフィルタリングがかかっている(こいつならつきあっても良いだろうという具合に)。また、始めるにあたってはリアル世界の友人と一緒にやらなければ、ただアカウントを作っただけになってしまうとも言われている。要はフェイスブックは現実世界からの繋がりを大事にしている。

 

こう考えると、「リア充ツール」と言われているのがよく分かる。