体系化と批評について

ビデオゲームのレビューを書いていて、体系化」はきわめて難しいと感じ入ります。「体系化」とは何ぞや、と思われるかもしれませんが、わかりやすくいうと「AとBは○○の関係があり、BとCは××の関係がある」といったように、ものごとを関連付けることを意味して私は使っています。

体系化を経ていない文章は読み応えがありません。まるで内部で分裂しているかのような印象を受けます。そして時間がたつと風化します。だからといって体系化すればいいのですが、そう簡単にはいきません。

批評や講評をする前に行う分析対象の精査はおおかた以下のようなことを繰り返しますよね。

1.分析対象を大雑把に把握する

2.分析対象を各要素に分解し、詳細な検討を加える

3.詳細な検討を加えた各要素はもともと分解されたものだから、改めてひとつのものとして組み立てなおす

4.分析対象を新たな視点で把握する(以下2にもどる)

わたしの思うに「3」がきわめて難しい。 「改めてひとつのものとして組み立てなおす」というのは自分なりの解釈が入り混じるため、そう簡単にはでてこないからです。私の書いたレビューを見直してみても、「2」まではできていて「3」まではできていないものがたくさんあります。インターネットでみかけるレビューでも、「3」をうまいこと行っているものはあまりないですね。

あれが面白い、面白くない、このシステムは良い、悪い。ここまでは楽なのです。しかしその先、あれとこれはどのように関連し合っているか、そういうところを記述するのは難しい。

もうひとつ、分析したいものを評価するとき大きな流れに位置づけてみるという手法があります。それは以下のとおりです。

1.分析対象を大雑把に把握する

2-a.分析対象を同じジャンルや同じ部類のものと比較する(横をみる)

2-b.分析対象の所属する領域について歴史的に回顧する(縦をみる)

3.その上で分析対象を大きな流れのなかに位置づける

4.分析対象を新たな視点で把握する(以下2にもどる)

ひとつの分析対象の精査とほとんど同じなのですが、対象が広がっています。お気づきの方はいるとおもいますけれど、これはつまるところ「歴史を記述する」という方法に似ているのですね。ここまでくると参考にするべき対象が増えて、自分の好きなように書くわけにはいかなくなります。好き勝手にレビューするカタルシスはなくなってしまいます。ですが自分の解釈と実態との乖離、一致をどのように埋めて一本の筋をとおしてゆくはスリリングな知的遊戯でもあります。

批評というものはどうして行われるのでしょうか?簡単に言うと対象の再評価のためです。つまり「私はAについて××と思ったけど、甲さんは△△と思っている。甲さんの考えをもとにAをみなおすと、確かに△△という面がうかんでくる」、このような体験を促すために行われます。そんなことを繰り返していると、対象への見方が変わってきます。作品に対する考えや印象が変容してきます。そして新たな視点を得たときに、元の対象はまったく違ったものに見えているはずです。

批評とは対象となる作品を何度も楽しむためのものとして存在しています。 対象への見解を組み立てなおし新たな視点で見ようとする姿勢が批評そのものなのです。そして批評をするためには、「体系化」が不可欠です。

常套句について

自分の語彙の狭さを棚に上げて書くべき事柄ではないのかもしれませんが、町の会話や新聞やインターネットにあふれる言葉のせまさにためいきをつくことがあります。あまりにも使い古されていて「効力」を失った言葉があふれているのです。つまり常套句=クリシェのことです。いかなる鋭い切り口と輝きをもった文言であっても、幾度となく使われることによって「人を感化する力」は失われていきます。聞き手や読み手はとるにたらないつまらないものにしか感じず、かつて人々を感動させた言葉はクリシェに成り下がります。

現代のクリシェを生み出すものはなんでしょうか。学校教育の教科書、ラジオ、新聞、テレビ、どれも大量の人々へ同じ言葉を伝えます。皆が皆、同じ言葉を使えばクリシェとなります。

中でも現代日本の書き言葉の常套句について大きな影響を及ぼしているのが新聞、雑誌、インターネットです。おそらく、現代の書き言葉で接する量が最も多いのは新聞でしょう。そして新聞にかかれた文章にはどこか独特の雰囲気があります。政治欄と文化欄では異なるといえど、新聞ならではの書き方があります。実際は「新聞虎の巻」のようなものがあり、それに沿って書くと新聞調の文書に化けてしまいます。別にわるいことではありません。文章とはそういうものなのです。受け継がれてきた書き方があり、発信側の意図と受け手側の目的によって、適切な書き方はかわってゆきます。たまたま新聞の報道ではあのような方式が優れているとみなされてきた、というだけです。ですから新聞のように情報伝達を目的としようとするのならば、新聞をお手本にしても不都合はありえません。

しかし自分が本当に伝えたいことを文章に著すにはまったく適さない方法です。新聞とはほぼ日替わりで読まれて使い捨てにされてゆきます。日がたった新聞が読まれることはありません。もとから表層的な情報を伝えるために存在しています。あるいは、抽象化せずに具体例を出し理論や思想を説明せずに時論を展開するために使われている。そして、突っ込んだ部分に触れないがためにレトリックと装飾をほどこした決まり文句を使わざるを得ないのです。こういった賞味期限が極めて短い言葉を真似してしまうと、薄っぺらく誰にも伝わらない文章になってしまいます。

インターネットにはびこる文章も似たようなものだと私は考えています。長くなってもよいから伝えたいことを懇切丁寧に身振り手振り交えるかのように書かれた文章はほとんどありません。もし情理を尽くした文章があっても「長いから」と飛ばされてしまうのです。その結果、ほとんどがお互いのつながりを意識しあうか、感情の赴くままに書かれたものばかりになってしまう。このような場面で使われる言葉は何でも良い。ある意味言葉でなくてもかまわない。友人と一緒に歩いてご飯を食べるだけでも、あるいは怒りを表すために不機嫌になるのも、言葉は要りません。使う側は言葉で丁寧に感情を描写する必要もない。であるからわざわざ深く考えることもなく使われた「決まり文句」に満ち溢れています。

クリシェで彩られた文章は読み手へのメッセージを発しています。この文章は「賞味期限が短い」「深く推敲して書かれていない」「感情の赴くままに書かれている」「したがって、きちんと読まなくても良い」。たとえ書き手が意図していなくても、常套句はネガティヴな意味を持っています。

 

点数をつける理由

ビデオゲームに点数をつけるのは難しいです。採点基準なんてものはないのですから当たり前と言ったら当たり前。しかし意味はある、と思う。

ビデオゲーム同士の相対的な位置を考えることになる

もう本当に悩むわけです。AというゲームとBというゲームはどっちが上なのだろう、と。しかも思いっきり点数差をつけるのだから、きちんと理由付けをしていなければなならない。誰かに疑問を持たれたときに即回答できなければ情けない。

そうやって何十本も繰り返し採点していくうちに、自分の好きなゲームはどうであるとか、自分の感性がどうなっているのか、似ているゲーム二種類の違いは何かを自然と意識できるようになってきます。本来は点数付けするなんてことは不可能でも、なんとかしてやろうと思うと見えてくるものがあるわけです。

おそらく見ている方も楽

もうひとつ利点があります。私のウェブサイトを見てくれた人が「どのようなゲームを遊びたいのか」を探すときの指針にもなるのです。点数になっているおかげですぐ分かるんですね。もちろん私の独断的な点数付けですので、どこまで参考になるかは未知数です。それでも判断の手がかりにはなり得ます。

点数付けは今後も継続してやっていきます。利点は多い。欠点もあるけれど、やり続けることに意味はあると思いたい。

【メモ】「パラグラフ ライティング」「パラグラフ リーディング」への覚え書き

レビューの質を上げるためには文章について考えることも大事だ、と思います。そこで考えてみたことのメモを残しておきます。ここで書かれている内容はゲームと関係ありません。

パラグラフ ライティングパラグラフ リーディングとは何なのか

パラグラフ ライティングパラグラフ リーディングとは何なのでしょうか。端的に言ってしまいましょう。どちらも「読みやすくするための方法」です。読者が論旨や主題を手っ取り早く手に入れるための手段、と言い換えても良いでしょう。見逃されがちなのですが、2とも揃って初めて意味をなします。

パラグラフライティングとは「どこに何が書かれているか(論旨)」を明確しながら文章を書いていく手法です。一方のパラグラフリーディングは、「パラグラフライティング を使用して書かれた文章を、最短で読む手段」です。パラグラフライティングあってこそ、パラグラフリーディングは使えるのです。つまりパラグラフライティングされている文章でなければ、パラグラフリーディングはできません。

要するに文章の書き方、文章読み方のルールを言っているに過ぎない。ではなぜ、あたかも画期的な手法のように言われるのかという疑問が湧いてきます。理由はおそらく日本人がパラグラフライティングを学ぶ機会がないからです。パラライとパラリー(面倒なので略します)に限らず、不思議なことに日本人は文章の書き方を小中高で教えられていない。ですから社会に出た後や大学に入学後、自力で学ばなければならなくなっている。自力で学ばなければならないのだから、やたらと「売り文句」をつけて、まるで魔法のように宣伝されているのではないかと思います。

新聞の読み方、書き方みたいなもの

もうすこし違うものに喩えてみましょうか。皆さんは新聞の読み方を知っていると思います。一面の大見出し、中見出し、小見出し、詳しい記事は三面で解説、といったような構造です。私たちが新聞を読むとき、「そのような構造であること」を前提にして読んでいるのではないでしょうか。これもまた抽象的な言葉にすれば、私たちは新聞のどこに情報があるか」を何となく意識しながら記事を読み始めている、と言えるでしょう。だから新聞を読むと、すさまじいスピードで情報を得られるのです。「どこに何が書いてあるのか」が読む前から分かっているのです。読者が自分に必要な情報だけを取り出すのはワケもない。同様なことは雑誌でも、Yahoo!の記事でも言えます。

で、私が書くゲームレビューについても、読者のことを考えて「情報の位置」をかなり明確にしています。最近の文章はとくにそうしています。たぶん長らく読んでくれている方は、「読む前」に結論がどこに書かれているかが分かっているはずです。意識せずともパラグラフリーディングのようなものを使って読んでいる人もいらっしゃるかもしれない。

だが、面白くない

しかしパラライに限らず、「どこに何があるのか」を伝えてはいけない文章もあります。代表的なのは小説、それもミステリー小説でしょう。章の題名に「犯人は○○だ」と書いてあったら興がそがれます。小説だけではなくて、随想や批評ものには敢えてグニャグニャな論理展開を行っているものもあります。それはどうしてでしょうか。

この理由も簡単に言ってしまいましょう。「楽しませるため」です。情報を伝えるのではなく、「読者を楽しませる」文章の場合、どこに何があるのかを敢えて隠した方が都合が良い。文章で読者を魅了するからこそ、随想や批評に意味があります。単に情報を伝えるだけならば新聞や雑誌のように定型的な口調で淡々と書く方が良いのです。

定型的な文章は面白いものもありますが、無味乾燥でつまらないものが多い。やはり予定調和は面白くないのですそこをかき乱すから面白い。「どこに何があるのか」が分からないから、小説は面白い。素晴らしい小説を読んでいると、先が読みたくなります。先が分からないから、先へ先へと進みたい衝動にかられるわけです。これは小説以外の、映画、ゲーム、スポーツ観戦、そういったものにも当てはまります。どれもが「未知」を楽しむものです。

私はレビューにおいて、どちらかというと未知を楽しませてみたい、と思ってはいます。ところが文章力・想像力が足りず、どうしてもカチッとした文章を書いてしまいがち(そもそも論理的に書けてないという指摘もごもっとも)。上手い文章はたとえ論理的でなくとも読ませます。とはいえそんな文章は滅多にない。そこで折衷案として、どちらの長所も生かせるように部分部分はなるべくパラグラフリーディングが出来るように区分けし、中身の展開の仕方についてはアクロバティックに書いているつもりです。成功しているかどうかは別にして。

最後に、パラグラフリーディング、 リーディング、の決まりみたいなものを書いておきます。かなり大ざっぱに言います。

1.一文一意ではない。

一つの文で言いたいことを言い表しません。いくつかの文章に分けて説明します。ひとつのパラグラフ(段落)で一意ということもありますし、数パラグラフで一意ということもあります。

2.「抽象→具体→抽象」という形でひとつのパラグラフが作られることが多い。

たとえば以下のように書きます。

今日の社会のなかでは、科学者という存在はごくありふれている。むしろ、その存在がないということ自体が考えられない。しかし、今から150年前には、科学者と呼ばれる人々の数は、数えるほどだったし、200年前には、皆無だったと言ってよい。というと、直ちに反論があるかもしれない。ニュートンは「科学者」ではなかったのか、ガリレオ(1564-1727)は、コペルニクス(1473-1543)はどうか。ニュートン(1642-1727)が死んだのは1727年のことである。今から250年あまり前のことだ。しかしニュートンは「科学者」と4でよいのではないか私は、その反論には「ノー」と答えたい
村上陽一郎 『科学者とは何か』 34ページ

 

緑色で抽象的に言って、橙色で具体例を出しています。この文の場合は更に予想される反論について論駁を試みようとしてもいます。これを読んだ読者は、この先に『ノー』という根拠がかれてあるのだな、と予想できます。

4.次から何が書かれるのかを示す言葉が使われている。

上の引用例でも示したとおりです。「次から○○を書きます」と宣言してから文章を書きます。これは接続詞(しかし、ところが、ゆえに、したがって、等)で代用されることもあります。

5.入れ子構造になっている

見落とされがちだけれども、最も大事なのはコレだと思います。ガチガチのパラグラフライティングされた文章は完全なる「入れ子構造」になっています。

パラライにおける「入れ子構造」とは、1.から4.で書いた性質が一つ一つのパラグラフに当てはまるだけでなく、文章の構成にも当てはまる性質のことを意味しています。言い換えましょう。数個のパラグラフが合わさってひとつの「中パラグラフ」を作り、「中パラグラフ」同士があたかもひとつのパラグラフになったかのように繋がっている状態です。更には中パラグラフがいくつか合わさって大パラグラフとなり、大パラグラフ同士でさらに関係し合います。

これだけだと何を言っているのかわかりにくいので、具体例を出します。ここで使うのは目次です。先ほど引用した『科学者とは何か』の目次ページをちょっと書いてみます。

III科学者共同体の形成
1.科学者とその共同体
科学者の誕生
科学者とは何か
~中略~
専門学会の形成
2.技術の状況
技術の伝統
国家が養成する技術者
アントレプレヌールの活躍

 

先ほど引用した箇所は「科学者の誕生」という小見出しの出だしのパラグラフまるごとです。項目「科学者の誕生」ではその後、数パラグラフが続きます。おわかりの通り、見出しにかかれたことの説明が以後のパラグラフでされているわけです。

同様に「科学者の誕生」という中パラグラフは、その後の「科学者とは何か」、「専門学会の形成」…という中パラグラフと関係しあっています。そして中パラグラフの集まりが、大パラグラフ「1.科学者共同体の形成」をつくります。ここまでくるともうおわかりですね。さらに大パラグラフは大パラグラフとからみあい、特大パラグラフをつくり、特大パラグラフは超特大パラグラフを作っていくのです。

きちんと書かれた本は以上のような構造を踏襲しています。もちろん、下手クソな文章を書く人はパラグラフ構造を守ってない場合もあったりします。とりわけパラグラフ単体のつながりや、小パラグラフ同士の関係性は文章の巧拙がでやすい傾向があるような気がします。

 

以上で終わりです。スッキリとした文章にすれば読みやすくなりますよね。できるだけそう書きたいものです。しかし、スッキリさせないで書くやり方もあるといっちゃある。それは文章力のなせるわざで極めて難しいといわねばならないでしょう。

カッコイイと感じる言葉?

題名とか、店の名前とかに英語やフランス語またはイタリア語などをつかっているのをたまに見かけませんか?手垢がついた名前だと「レストラン××」、「ビストロ○○」とか、「リストランテ□□」とか。

私の仮説なんですが、昔と今ではおしゃれと感じる名前が変わっていていると思うのです。たとえば「銀座」という名前をお店の名前につけているのをみると、今では古くさいか歴史があると感じる(銀座ライオンとか銀座アスターとか)。しかし、当時はオシャレな名前だったのではないか。先ほど述べた銀座ライオンは明治、銀座アスターは昭和元年創業のお店です。当時、裕福な家族がおめかししてデパートや繁華街へって行くという時代ですよね。

でまあ時代が下ると、使い古されてしまうわけです。名前が。銀座とか、レストランとか。もっと大胆に言い換えると、日本語や英語が聞き慣れて陳腐化してしまった。だからフランス語やイタリア語のような語感を持ち出して異国情緒を引き出すと、なんだかおしゃれに感じる。もちろんイタリア料理の店で英語の名前をつけたらおかしくなってしまうので、整合性をつけるという意味もあります。

英語はかっこいい?

で、英語がかっこいいとか、なんだかすげえと感じるのはまだまだ残っている面もあるのではないかと思います。わかりやすい例はビデオゲームや映画、その他海外製のコンテンツの翻訳です。

よく考えてみてください。大昔であればカッコイイ翻訳を考えていたわけです。たとえば小説の『The Catcher in the Rye』を64年に野崎さんが『ライ麦畑でつかまえて』と訳している。ところが2003年には村上春樹さんが『キャッチャー・イン・ザ・ライ』とそのままの題名で出した(村上春樹の立場というのも考える必要はありますが)。

スターウォーズだって、『新たなる希望』(4部)→『帝国の逆襲』(5部)→『ジェダイの帰還』(6部)と旧シリーズは翻訳された後に、新シリーズは『ファントム・メナス』で始まっている。こうして英語そのままにして「読んだ印象」を伝えるようなものが増えている。

ビデオゲームの場合、黎明期から多くの作品で英語の題名が使われている。日本製のゲームであってもなぜか英語がタイトルですよね。 『マリオブラザーズ』を訳したら「マリオ兄弟」、『スパーマリオブラザーズ』を訳したら「超マリオ兄弟」、『ドラゴンクエスト』を訳したら「龍を巡る冒険」、『バイオハザード』を訳したら「生物災害(生物学的危害)」、となるはず。しかしどう考えてもマヌケになってしまうせいか、ビデオゲームのタイトルは英語のままで発売されることが多い。

そして映画でもゲームでも、吹き替えでなくて英語音声を好む人が多い。主な理由は「吹き替えだと雰囲気が悪くなるから」だそうです。まあそれについて詳しくは述べませんが、「英語だとなんだかすごい」と感じるのは今でもかわらないのでしょうね。