[書評] 街場のマンガ論

 書評はこの文章の後です。書評だけよみたければすっ飛ばしてください。

 

他人と会うことで、自分にはない視点に気づくことができる。当たり前のようでいてなかなか奥が深い。

 

インターネットは自分の好きなように情報を探すことができるツールだ。ともすれば自分が興味を持っていることばかり調べてしまう。そこで、新たな興味をもてるように色々な分野に手を出そうとする。しかし何をすればよいのかという手がかりすら見つけられないことが多い。自分が名前も存在もまったく知らないことを、より詳しく知るようになるには、自分1人の力では限界がある。

 

このとき大きな力になるのは他人だ。自分と他者は違う人間だ。必ず「相手が知っていて、自分が知らないこと」がある。インターネット、というか検索システムはその点で、自分の知っている文字を打ち込まなければいけないので、興味がかなり狭まってしまう。「検索の罠」とでも呼んでおく。

 

ポータルサイトで様々な話題が一緒に交わされているのも、テレビや新聞で視聴者・読者の好みに関わらず多種多様な情報を流すのも、「自分が知らないとすら分からない、完全な未知のもの」を知る手がかりになってくれる。そういう意味ではテレビのような広い広いメディアは捨てたものではない。

 

ウェブサイトはアクセス数を稼がなければならない。誰だって自分の丹精込めたものを見てもらいたいから、アクセスをあげようとする。とりわけ推奨されている方法が、テーマを絞ることだ。ゲームならゲーム、飲食店巡りなら飲食店

巡りに特化させる。特化させると、まあ色々なことがあって(例えば利用しやすくなるとか)アクセス数は伸びやすくなる。

 

ところがアクセスをのばそうとした結果、ウェブサイトなりブログなりは単一の話題だけを提供することにもなり得る。こうなると、既に述べた「検索のワナ」(検索では好きなものしか、知っていることしか調べられないこと)を更に助長してしまわないだろうか。

 

せめて自分のウェブサイトぐらいは検索絶対主義にささやかながらあらがってみようと思っている。そういうわけで、私はゲーム以外のこともたま~に話すのである。

 


 

 

街場のマンガ論 内田樹 小学館クリエイティブ

 

フランス現代思想の専門家がブログに書き溜めた文章を再構成したコンピレーション・アルバム的著作。漫画研究家にあるような目線ではなく、あくまでも思想家として、小さい頃から漫画を愛して多くのことを学んだ人間として、それぞれの文章は書かれている。

 

書かれた年月もジャンルもばらばらだ。井上雄彦論から少女マンガ、宮崎駿論、それにマンガとは関係なさそうな話題もある。考察の視点は面白くとも実証性に乏しいものが多い。著者は現代社会への独創的な視点でいつも読者を楽しませてくれる内田樹。そのような人がときたまブログで見せる「周辺部」、「意外な一面」、「ヨタ話」を集めたものだから、こんな構成になっているのだろう。もとから厳密な論証をしようと思って書かれてはいない。

 

私のようにレビューばかりしている人間はどうしても批評するクセができてしまう。時として本を楽しむことよりも批判を優先してしまう。しかし、場合によっては著者のリズムにノリながら、すらすらと流れるように読んでもいい。楽しく読めるときに文章を論評してしまうと興を削いでしまう。

 

なにせ書かれていることが面白いのだ。

 

井上雄彦論はこんな感じで話が進んでいく。井上雄彦描く物語は「短期期間内に急速に成熟しなければならない少年のドラマ」(16頁)が多く、それは「子どもは葛藤のうちに置かれることによってしか成熟しない」(31頁)と言い切っている。さらにこのような話を描ける井上を「教育的」(61頁)と一呼吸してから、世界中の少年たちに「井上さんの描く物語を読んで欲しいと思っている」(186頁)とまで言い切っている。では具体的そうなのかというのは、ぜひとも本を買うなり借りるなりして読もう。

 

『街場のマンガ論』を読む際は、怪しい話を笑いつつ、あっちにいったりこっちにいったりしながら読むのが良いのかもしれない。内田樹ファンなら見たことがあるような話題やどうでもいい雑記も多いが、そのかわりに骨太な論理や難しいことばは登場しない。