「不当に無視されたゲーム文化」を「内部から告発」できたのか?

古い雑誌を読んでいたらビデオゲームに関するコラムを見つけた。雑誌の後ろのほうに位置された投稿欄というべきか、エッセイと言うべきか、そこに1985年人が見たファミリーコンピューター像があった。

 任天堂のファミリーコンピューターが四百万台売れ、カートリッジ式のゲームが一本当たりで、最高百万本も出ている。一台のゲーム機に四人が触れ、一人五時間ゲームをプレイしたろして、単純計算しよう。のべ二千万時間がゲームのために費やされていることになる。チップに書き込まれたプログラムの単純ループ、またはサブルーチンへのコールが、ファミリーコンピューター内部でさらに一秒間に何メガヘルツという猛烈なスピードで繰り返される。
 たしかに画面に映る絵柄は塗り絵や簡単な書き割りアニメーションかもしれない。内部機構を絶対に人目にさらさないディズニーランドのようなエンタテイメントからいえば、ファミリーコンピューター・ゲームの演出は、まだまだ幼稚なものに見えるだろう。
 しかし、小学校の教室で、七割以上の子供が、ファミコンで遊んで充血した眼をパチパチさせながら、寝不足気味の授業を受けている現実は、この塗り絵機会に少年達を熱中させる何かがあることをはっきり物語っている。僕はそれを”不気味である”とか”ハイテク時代の機会で遊ぶ少年”とか”自閉症”であるとかの、大人の目から見たアタリマエの話にすりかえたくはない。
 ファミリーコンピューターの価格は約一万円、ディスカウントショップに行けば一万円。安価なメカの普及について、そして子供達がそれを夢中にプレイする光景について、誰も、何も、まともに発言しようとはしないのは何故だ。発言を避けるのはらまだいい、文化人や評論家の多くはその図を見ようとしない。不当に無視されたゲーム文化のなかで、10代未満の原体験が形成されていくのに、僕ははがゆさを感じながらも、どうにもできない。次の世代からの、クリアランスな発言―メカニズム内部からの告発にも似た、救世主の声を、僕は待っている。
野々村文宏「メカニズム内部からの告発」 『ユリイカ 増頁特集*未来派 モダニズムの総決算』青土社 1985年 12月号 p278

ところでこの短い文章を書いた野々村文宏さんは当時新人類と呼ばれていた若者だった。80年代初頭の言論界ではなにが議論されていたのかはあまり知らないのだが、今風に言うと宇野常寛や濱野智史みたいな存在のようだ(年齢からすると荻上チキ、古市憲寿、後藤和智なんかが近いかもしれない。ゲームなら井上明人か)。ちょっと前なら東浩紀か。要するに、若い世代からの生の声を広く一般にとどけたり、流行する現象をもとに世評や日本について深く語ろうとする人たちである。

私たちは野々村さんが求めていた声をだせただろうか。幼少期かビデオゲームと共に育ってきた人間としての声を。そして、ビデオゲームを”まともに”語れているだろうか。