「FPSやTPSは頭の良い人のための頭を使うゲーム」なのか?

Kotakuの記事に「なぜ人は敵を銃で撃つゲームが好きなのか?」だというコラムが載っていた。以下引用。http://www.kotaku.jp/2012/12/why_we_like_to_shoot.html

このコラムの結論は「(あらゆるゲームジャンルの中で)最も素早く直感的な判断が必要とされ、その判断に瞬時に結果が示されるジャンルである」からだとされている。ここにはまあそれなりに同意しておくのだけれども、コラムで引用されている以下の発言には批判を行いたい。
「ほとんどの人はシューティングゲーム(FPS)をわかっていない。しかも率直に言うと、ほとんどのシューティング開発者もわかっていないと思う。シューティングゲーム(FPS)は頭の良い人のための頭を使うゲームだ。
確かに仕組みは簡単だし、手軽に遊べるから気の短い人やあまり時間のない人にも都合がよく、実に幅広い層の人に受け入れられる。でも実際のシューティングゲーム(FPS)はプレイヤーの頭の良さを必要とするものだ。
シューティングゲーム(FPS)と比べて、ターン制のゲームで次の動きを考えるのにそれほど頭を使う必要はない。なぜなら考える時間があるからだ。息をつくヒマがある。考える時間があるほど、より良い決定を下しやすい。ターン制のゲームを馬鹿にしたいわけじゃないし、そんなことをする方が馬鹿げている。
ターン制でもプレイヤーの考える力はもちろん必要とされる。ただ個人的には、ターン制でのプレイヤーの頭の使い方は主に論理か数学的な考えに基づくもので、シューティングゲーム(FPS)が要求する知能ほど刺激的ではないと思う。
シューティングゲームを過小評価する人たちは、よくこんなことを言いたがる。「シューティングゲーム(FPS)なんて、ターゲットを狙ってボタンを押すだけじゃないか」。質の悪い開発者もそう考えているふしがあって、だから彼らの作るゲームはその程度なんだ。
たとえばチェスはわかりやすいゲームだけど、「チェスはシンプルで手軽に遊べるから、頭の悪い人がやる頭の悪いゲームだ」なんて言われることはない。それがシューティングゲーム(FPS)だと、人はいつもそう言いたがる。
シューティングゲームで必要とされる思考力をここに並べてみる。
論理・数学:シューティングゲーム(FPS)ではリソース管理が重要。残弾数はどのくらいか? 今後どれだけ消費するか? 現在のリソースを売ることで購入できるアップグレードは?
空間認識:自分と自分以外の物の位置関係は? 敵はどこから撃ってくる? 敵はどこに向かって動いている? 自分はどこに向かう? どこに向かって撃つ?
対人:自分のいる方向に攻撃してこないかどうやって確認する? 敵を自分の射程範囲に誘い込むにはどうしたらいい?
身体・動作:現在の位置関係ならエリア内でどう動くべきか?
さらに、これらすべては即時に判断する必要があるため、リアルタイムのプレッシャーも加わることになる。
右エリアに行くのをやめるか? 今の残弾数は? あいつを射程に呼び込むにはどうする? さっきいなくなった敵は奇襲をかけてくるんじゃないか?
ゲームのプレイ中、常にこれらを考え続ける必要がある。確かにシューティングゲーム(FPS)は誰でも遊べるが、上級者になるには相当の思考力と精神的な鍛錬が必要とされるのだ。
シューティングゲーム(FPS)は間違いなく最も知能的なゲームの一種だ。僕はコンボの組み合わせを覚えたり、RPGで次の一手をじっくり考えたりすることに興味はない。それは僕の知能をあまり必要としないからだ。
だがシューティングゲーム(FPS)は? すごく頭を使う。頭の良い人のための頭を使うゲームだ。素晴らしい。」

試合では思考力だけではなく、無意識にも動いているはずである

(おそらくタクティカルではない)シューティングゲーム(=FPS)で必要とされる思考力にはいくつかのものがあると書かれ、「リソース管理」「空間認識」「自分と味方との連携や敵との駆け引き」には相当の思考力が必要だとされている。なのだけれど、ここがちょっとおかしい。というのも、瞬時の判断が要求される試合ではいろいろと考える暇なんてものはないからだ。試合中は考える暇もなくゲームが進行せざるを得ない。いちいち考えていたら、考えている間にやられてしまう。格闘ゲームでもFPSの試合でもテトリスの上級者モードでも、柔道剣道すべて同じである。

実際の試合では考えることなく、まず先に体が動いている。要するに大脳を経由することなく目から入った情報がそのまま神経を刺激して筋肉を動かしている。体を動かさないときでも視覚情報はすべて感覚的につかまれている。細かい数値計算なんてのもなかなかできない。

ではなにを元に動いているのかというと「練習の成果である。引用記事のいうところの思考力ではない。私たちの体は練習を行うことによって、動きや感覚を体に覚えこませることができる。とてもわかりやすいのが野球やゴルフなどの素振り、または空手の型である。空手の型は日常生活の動きとはまったく異なるためなかなか身につかない。そこで一挙手一投足すべてに意識を集中し、型をなぞる練習をする。はじめのうちは頭の中で型の動きをトレースすることがむずかしいが、繰り返し練習していくうちに意識することなく型をなぞれるようになる。そしていつしか頭のなかでは完璧な型を行う自分の姿がイメージできるようにまで上達する。野球のバッティングや投球練習でも同じことがいえる。プロ野球選手がフォームを改造するとき、必ずフォームを「固める」ために素振りやら投げ込みを行う。この「固める」という作業にこそ練習をする意味を見出せる。

更に練習が高度になってくると、今度は練習で身に着けた型を組み合わせたり実戦とほぼおなじような形式で行う。そこでは、野球ならばピッチャーの投げるボールを打つといった複雑な状況判断と身体動作が必要になってくる。最初のうちはうまくいかないのだが、練習を続けていくうちにある程度は上達していくはずだ。ここでは単に体を動かす動作に加えて、目から入ってくる情報とが関連付けられている。

以上のような練習を踏まえた上でいざ実戦を行うと、まぎれもなく体は動いてくれる。しかも無意識にうごいてくれる。練 習によってさまざまな場面と状況を自分の中に覚えこませ、意識することなく最善の解を出せるようになったとき、未知なるもの対しても適切な動きが出来るよ うになっているのだ。違う言い方をしよう。思考しなくても良いように体にいくつもの動きを覚えこませなければ、体は瞬時に動いてくれないのだ。

練習の果てにあるものは・・・

FPS の話題に戻る。FPSでも同じことが言える。練習や気軽なゲームで立ち回りとか照準を合わせる能力を磨いていく。そうして最初はぎこちなかった動きも無駄 のないキリリとしたものに変わっていく。練習では秘密の作戦や秘蔵の攻撃方法も行うだろう。いつしかくる実戦では、練習によって身につけた作戦や攻撃が威 力を発揮する。

はっきりいって試合では練習で出来なかったことが突然出来るようにはならない。練習でできることしか試 合ではできないのだ。しかも一瞬の判断が命取りとなるため、練習によって体に覚えこませた動きしかできない。しかし、練習によって身に着けたことが多けれ ば多いほど、まったく予想だにしなかった驚異的なプレーも生まれてくる。つまり無意識にできるようになった動きがいくつも組み合わさり、本番では自分の意識を超えたプレーへと昇華する場合があるの だ。これこそよくいわれる「無我の境地」であり、「考えるな感じろ」の世界である。絶対に失敗することの出来ない緊張感の中、歓声はやんで周りの風景は姿 を消し、体が動くままに動く。そんな感覚をもったことはないだろうか?ピアノの発表でもバレエの公演でも演劇でも、何かが乗り移ったかのように体が動く感 覚に覚えはないだろうか?

ところで体に覚えこませたものは一体なんだったのだろうか?あえて言うの ならば「観念」である。型だろうとなんだろうと、とにかく最初は頭の中で必死に思い浮かべながら身に着けなくてはならない。また、日常生活で身につけられ ない動きはすべて観念的につくられたものでしかない。しかし人間は不思議なことに、実体のない思考回路を体に覚えこませて文字通り体現することができる。 体はときとして心と一体となりうるし、また心より先に動き出し、心よりも柔軟なのだ。