常套句について

自分の語彙の狭さを棚に上げて書くべき事柄ではないのかもしれませんが、町の会話や新聞やインターネットにあふれる言葉のせまさにためいきをつくことがあります。あまりにも使い古されていて「効力」を失った言葉があふれているのです。つまり常套句=クリシェのことです。いかなる鋭い切り口と輝きをもった文言であっても、幾度となく使われることによって「人を感化する力」は失われていきます。聞き手や読み手はとるにたらないつまらないものにしか感じず、かつて人々を感動させた言葉はクリシェに成り下がります。

現代のクリシェを生み出すものはなんでしょうか。学校教育の教科書、ラジオ、新聞、テレビ、どれも大量の人々へ同じ言葉を伝えます。皆が皆、同じ言葉を使えばクリシェとなります。

中でも現代日本の書き言葉の常套句について大きな影響を及ぼしているのが新聞、雑誌、インターネットです。おそらく、現代の書き言葉で接する量が最も多いのは新聞でしょう。そして新聞にかかれた文章にはどこか独特の雰囲気があります。政治欄と文化欄では異なるといえど、新聞ならではの書き方があります。実際は「新聞虎の巻」のようなものがあり、それに沿って書くと新聞調の文書に化けてしまいます。別にわるいことではありません。文章とはそういうものなのです。受け継がれてきた書き方があり、発信側の意図と受け手側の目的によって、適切な書き方はかわってゆきます。たまたま新聞の報道ではあのような方式が優れているとみなされてきた、というだけです。ですから新聞のように情報伝達を目的としようとするのならば、新聞をお手本にしても不都合はありえません。

しかし自分が本当に伝えたいことを文章に著すにはまったく適さない方法です。新聞とはほぼ日替わりで読まれて使い捨てにされてゆきます。日がたった新聞が読まれることはありません。もとから表層的な情報を伝えるために存在しています。あるいは、抽象化せずに具体例を出し理論や思想を説明せずに時論を展開するために使われている。そして、突っ込んだ部分に触れないがためにレトリックと装飾をほどこした決まり文句を使わざるを得ないのです。こういった賞味期限が極めて短い言葉を真似してしまうと、薄っぺらく誰にも伝わらない文章になってしまいます。

インターネットにはびこる文章も似たようなものだと私は考えています。長くなってもよいから伝えたいことを懇切丁寧に身振り手振り交えるかのように書かれた文章はほとんどありません。もし情理を尽くした文章があっても「長いから」と飛ばされてしまうのです。その結果、ほとんどがお互いのつながりを意識しあうか、感情の赴くままに書かれたものばかりになってしまう。このような場面で使われる言葉は何でも良い。ある意味言葉でなくてもかまわない。友人と一緒に歩いてご飯を食べるだけでも、あるいは怒りを表すために不機嫌になるのも、言葉は要りません。使う側は言葉で丁寧に感情を描写する必要もない。であるからわざわざ深く考えることもなく使われた「決まり文句」に満ち溢れています。

クリシェで彩られた文章は読み手へのメッセージを発しています。この文章は「賞味期限が短い」「深く推敲して書かれていない」「感情の赴くままに書かれている」「したがって、きちんと読まなくても良い」。たとえ書き手が意図していなくても、常套句はネガティヴな意味を持っています。